昭和53年、由布院温泉観光協会事務局長に就任、催し物進行から東京霞ヶ関との連携まで指揮をとり、由布院のまちづくりを再生。行動する女性技術者の事例。
由布岳のふもとに位置するまち、由布院(現大分県由布市)。温泉はもちろん映画祭や音楽祭など観光客から文化人まで集まるまちとして、その名は全国に知られています。このまちで現在のように多様な主体がかかわるまちづくりが始まったのは、昭和50年代のことでした。
その頃、由布院のまちづくりのために東京から移り住んだ一人の女性技術者がいました。今回紹介する猪爪範子氏です。
猪爪氏が初めて由布院とかかわったのは1976(昭和51)年、由布院を舞台に開催されたまちづくりシンポジウムに、事務局として参加したときのことでした。それまで東京で地域開発関係のレポートや計画書作成の仕事に忙殺されていた猪爪氏でしたが、このときに初めて、地域という現場で実際何が起きているかわかったと言います。
シンポジウムでは、全国の地域をどうしていくかを主眼に、町民から専門家まで全国から300人以上が手弁当で集まり3日間の熱い議論が交わされました。子どもや女性の問題、農業や観光の問題などいくつかの分科会も設けられ、討論の場では女性や農業従事者も自分たちの募る思いを口にしました。
その頃由布院では、旅館亀の井別荘の中谷健太郎氏ら地元のリーダーたちが、次々とイベントを企画し実施していくというスタイルが定着していました。しかしシンポジウムを経て、観光業や農業や行政の立場、また女性の、親の立 場としての思いが、由布院のなかで形となって表われ始めました。猪爪氏は、「実は地域の人びとの思いは輻輳(ふくそう)していて、バームクーヘンみたいになっている。だから真実とか正義は多様だとわかった」と当時の驚きを振り返ります。
その後東京に戻った猪爪氏ですが、シンポジウムでの彼女の行動力に強い印象をもった中谷氏の依頼で、1978(昭和53)年に由布院温泉観光協会の事務局長に就任しました。このときの由布院では、前のシンポジウムを通じて地域の多様な思いが明らかにはなったものの、それは地縁血縁のなかで混沌としており、相変わらず中谷氏ら一部のリーダーが走り続けるスタイルが続いていました。そんななか、事務局長に就任した猪爪氏は、すべての人の思いを否定せずにみんながかかわるまちづくりを目指し、行動を始めました。
猪爪氏の由布院まちづくりへのかかわりの経緯
猪爪氏の行動は、地縁血縁に縛られることなく、多様な思いをまちづくりのなかに位置づけていくことでした。たとえば、都会の人から牛のオーナーを募り放牧を復活させた「牛一頭牧場主運動」。その運動の世話を積極的にすることで、当時は主張が対立することもあった農業と観光業を、ともにまちづくりに結び付けていきます。また、観光協会事務局長として町役場をはじめ県や国と直接連携をとり、町民はもちろん行政をまちづくりのなかに位置づけていきました。はじめは「他所者に何がわかるのか」という声もありましたが、猪爪氏は「地縁血縁のなかで自己表現することが難しいなか、皆が同じように考え、かかわっていけるまちづくりにするためには、ヨソモノでないとできない部分があった」と言います。そんな猪爪氏の努力によって、由布院のまちづくりは、多様な立場の人が参画する継続的なものに変わっていきました。地縁血縁にとらわれることなく、それぞれの主張を一つにまとめることが、ヨソモノであるがゆえにできた由布院への貢献でした。
由布院で地域の多様な思いをコーディネートした猪爪氏は、1979(昭和54)年には大分県中小企業情報センターに籍を移し、ムラおこしを提起し研究集会の開催に取り組みました。地域の人びとが自ら発想し、行動している活動を「ムラおこし」という新しい言葉で定義し、相互の経験交流を通じてその意義を広く社会に流布しようと、地域を越えて集まり経験発表会をしようというものでした。
この試みは大成功でした。その後も猪爪氏は次々と「ムラおこし」の活動を発掘し、大分各地の情報を地域の外へと開いていきました。その流れは、同時代の、大分県発一村一品運動につながり、さらに一村一品運動は海外にも広まっていきます。この大きな流れの基になったのは、由布院を愛する猪爪氏の思いだったのでした。
「まちづくりに携わるには、常に片手にリアルに現場をもっている必要がある」と猪爪氏は言います。現場をもたない限り、地域のつながりはわかりません。また、特定の現場と絶えず深くかかわることで、地域がどういうふうに、なぜ変わるのか見えてきます。だから、「愛すべき現場をもち、そこに自分の座標軸をもたなければならない」。猪爪氏にとって、その座標軸となった現場が由布院なのでした。
猪爪氏が「座標軸」という言葉で表したように、私たち技術者は地域に深くかかわりながら、時代の大局を見つめることが求められるのではないでしょうか?
自由と独立。どこに所属していても、最終的には自分の目と感性でものを見る。たくさんの現場を踏むことによって、イマジネーションが磨かれ、自分の立つべき位置がわかる。
長いキャリアなので、国内でかかわった地域は数知れない。いまは、インドネシアやネパールなどの地域振興の手伝いをしており、国外に出ることが多い。ある種の職能をもったよそ者が、そこでどうかかわっていくか。国内でも、国外でも通用する手法を、由布院で教わった。
シンポジウムで事務を見事にさばいていたのが印象的で、「加勢してくれー」と頼んだら「いいわよー」と来てくれた。が、東京の仕事を離れ田舎に移り住むのは、簡単なことではなかったと思う。
人間が好き。付き合い始めるととことん付き合ってくれる。僕らが海外調査で困っているとき、彼女は自費でついてきてくれた。
行動する技術者たち取材班
大橋幸子 OHASHI Sachiko 国土技術政策総合研究所建設経済研究室 研究官
参考文献
1)猪爪範子:湯布院町における観光地形成の過程と展望、造園雑誌、55(5)、1992
2)大分県中小企業情報センター:ムラおこし(内発的地域振興)の実践と理論、昭和55年2月
3)日本地域開発センター:地域開発'77.1
4)中谷健太郎:たすきがけの湯布院、2006
土木学会誌 93巻1号 2008年1月
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第16回 愛すべき現場をもて ~由布院の思いを一つに~(PDF) | 453.92 KB |
コメント
具体的な土木事業の話が書かれているわけではないのですが、猪
投稿者:(株)大林組 齋藤隆 投稿日時:金, 2009-01-16 00:00具体的な土木事業の話が書かれているわけではないのですが、猪爪氏の現場主義;「愛すべき現場を持ち、そこに自分の座標軸を持たねばならない」という考え方は、土木工学の本質を示しており、最近の土木技術者に少し欠けている部分であるように思いました。計画・設計・施工・管理のどの段階の技術者も、このような意識を持って仕事に取り組むことが、これからの地域の土木事業を盛り上げる為に必要であると思います。
今の私の職場では、様々なまちづくりを横断的に見ることができ
投稿者:国土交通省 田中成興 投稿日時:金, 2009-01-16 00:00今の私の職場では、様々なまちづくりを横断的に見ることができますが、つくづく思うのが、まちづくりは「人」だな、ということです。よき伝統を残すのも、新しい風を入れるのも、ある取り組みを継続していくのも、それに携わっている人に依るところが大きく思われます。それがまちづくりの難しいところでもあり、面白いところでもあるのでしょう。そんな中で技術者の存在意義を考えると、代表的な(?)キーワードの一つ、「よそ者」なのでしょうが、それだけだと物足りない。今回の「座標軸」という言葉は、一見「よそ者」と相反するようにも見えますが、両面を持ち合わせることでむしろ、技術者としてより向上できるように感じ、改めて心に留めておきたいと思いました。