交通研究室で景観工学の研究活動を始め、のちに東大の景観研究室を主宰。また自らの行動で、道路や橋梁、河川やダム、さらには連立事業とインフラデザイン領域を広げてきた。景観に携わる後輩のために道を拓くだけでなく、「土木技術者がデザインに取り組むことが土木の自立につながる」との考えが彼を動かしたという。
1877年開学と長い歴史を持つ東京大学に景観研究室が誕生したのは意外に遅く1993年。しかし「景観」は、長い時間をかけてその場所で培われた歴史、文化、伝統や市民生活があらわれたもので、都市・地域計画や建築を考える上で必ず問われるものです。この研究室を主宰されたのが、景観工学の草分けである篠原修氏です。
東京大学の学生であった篠原氏は、「交通を学び都市プランナーになろう」と志し交通研究室に所属しました。しかし、交通研のゼミは予測技術がもっぱらの関心事で、プランナーとしての価値観や意思を磨きたいと考えていた篠原氏には満足いくものではありませんでした。篠原氏は、当時交通研の助手であった中村良夫氏の誘いを受け、道路景観を卒業論文テーマに、また修士論文では地形が生み出す奥行き感と俯瞰景観の2つをテーマに選び、景観研究を始めました。富士山を題材にした奥行き感の研究では、父親の自動車を借りてありとあらゆる眺望ポイントをとにかく見て回ったそうです。
一般的な論文にある数式や定量的検証が少なかった修士論文は、当時の学内では高い評価を受けませんでしたが、景観工学の教科書に示される内容を先取りしたものでした。「僕の修論は景観工学の出発点」と篠原氏が言うとおり、修士論文で提示された論点や帰結などがほぼそのまま教科書に記載され、今も学生らがそれを学んでいます。
大学院修了後は、景観研究が行える場所を求めて、民間企業や東京工業大学、旧建設省土木研究所などといった職場を渡り歩いたのち、篠原氏は東大林学科の教授に推薦されますが、恩師の鈴木忠義先生から待ったがかかります。土木出身なのに林学科教授は罷りならんとのこと。中村良夫、森地茂両氏は、当時東大土木工学科の中村英夫教授に相談し、1989年に土木工学科の助教授に迎えられ、中村英夫氏の主宰する測量研究室所属となりました。
篠原氏は林学科助教授時代から、東大で景観設計および演習の講義を行っており、学生の間で評判を呼んでいました。ちょうど昭和60年代後半は、学生の間で土木の人気が停滞していた時期だそうで、篠原氏曰く「教授たちが社会的に受けのよさそうな景観に目を付けたのでは」とのこと。その2年後に教授に昇格、さらに2年後の1993年、ついに景観研究室の発足に至りました。
研究の指導、就職転職に関する継続的な助言、楽しい研究環境…様々なキャリアを経てきたここまでの道程ですが、学生時代を共にした恩師、先輩からは常に配慮や支援があったそうです。「土木の世界は温かいね」と何度も感じたと篠原氏は振り返ります。
大学に戻った時期に併せて、篠原氏は初めてのインフラデザインとして「松戸・広場の橋」に取り組みました。土木学会田中賞を受賞した橋ですが、構造専門家を過度に信用し過ぎて部材伸縮を読み切れなかったこと、専門家に任せた照明設備などの付属物が全体にそぐわなかったことという2つの大きな失敗をした、と篠原氏は振り返ります。「プロは簡単に信用してはならない」。プロは特定の専門領域には明るいが、トータルでデザインを見ることが出来るとは限らないとの教訓を得たそうです。
こういった失敗を経て取り組んだ辰巳新橋(東京都江戸川区)で、デザイン全体にきちんと目配せした結果「ようやく橋をデザインできたと思えた」といいます。辰巳新橋は「新中川の一番綺麗な橋」として地元住民にも好評で、またテレビドラマのロケ地として何度も利用されています。
道路や橋梁に限定されていた景観デザイン分野が徐々に、河川やダム等のインフラに対象が広がっていきます。例えば、8年間、11年間をそれぞれ要した津和野川護岸・広場(島根県津和野町、1998年)、苫田ダム空間のトータルデザイン(岡山県苫田郡、2005年)などです。
苫田ダムの取組では、ダム周辺全体のグランドデザイン検討チームとして「ダム・水辺」「道路・トンネル」「橋梁」「管理庁舎(建築)」等を専門とする新進気鋭の若手を集めました。彼らはそれまでの分野横断的活動がもたらした仲間で、内藤廣氏の協働もこれが初めてでした。苫田ダムは移転世帯が約500戸と多いことから、「いいものをつくろう」という機運を関係者間で共有し、33回の環境デザイン委員会と100回超のデザインワーク会議の開催を重ねたそうです。
この時期を「ダボハゼのごとく、あらゆる仕事の依頼を受け続けた」と振り返りながら、その理由として「『すべてのインフラはデザインの対象』を証明したかった」「後進に先鞭を付けたかった」。そして最後に笑顔で「おもしろかったから」と付け加える篠原氏です。
内藤氏とはその後も、日向市駅(2006年)、高知駅(2009年)、旭川駅(2011年)の連続立体交差事業において駅舎・駅前広場デザインなどで交流を深めていきます。これらを通じて内藤氏を、建築家としてだけでなく人格的に信頼できる人だと考えた篠原氏は、景観研究室の後釜候補として招聘しました。「土木界の弟子への暖簾分けよりも、関連他分野から新たな視点を注入することが重要」と篠原氏は考えたそうです。これも土木の教授たちの度量あってのことでした。
建築デザインの専門家が土木で教えるのは、長い東大の歴史の中でも初めてのこと。東大建築学科の教授陣が「それ本当なの?」と一番驚いたそうです。これを契機として、建築分野から景観研究室を志望する人も増え、確実に土木と建築の分野間の壁が低くなったといいます。
ArchitectとEngineerがパートナーとして全てのデザインに取り組む西欧に対し、日本は早くから建物かインフラかの対象物で職能を区分。建築分野はのちに構造部門や設備部門を作り分野として自立する一方、土木分野は構造部門のみであった時代が長く続きました。これが土木に根差す問題だと篠原氏は考えています。「土木も意匠を出来るようになることが土木の自立につながる、いつもそう考えてインフラデザインをやってきた」と篠原氏。この思いは、エンジニア・アーキテクト協会の活動などを通じて広く共有されつつあります。土木におけるデザイン分野のさらなる地位向上を図るという思いを胸に、篠原氏は今も様々なプロジェクトを牽引しています。
若手技術者の皆さんにメッセージを!
「篠原君、交通研に入ったからって交通をやる必要はないんだよ」と言って中村良夫先生は僕を導いた。これをそのまま送りたいね。決め事や組織にとらわれず、自分のやりたいことをやってみることも時には大切ではないかな。
プロダクトデザインの寿命はせいぜい10年、インフラは50年超と長寿命。土木技術者は後世に足跡を残せる「恵まれた職能である」ことを理解すべきです。
(文中の写真は篠原氏より提供)
森島 仁
Hitoshi MORISHIMA
『行動する技術者たち』取材班
日建設計 都市計画部 主管
【参考文献】
「内藤廣と東大景観研の十五年」(2013年)、「土木デザイン論」(2003年)
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【Web版第44回】すべてのインフラをデザインの対象に~「デザイン」で土木はさらに自立できる~ | 977.55 KB |