阪神大震災での振替輸送の対応を契機に近畿一円に利用範囲を発展・拡大してきたスルッとKANSAI。拡大したネットワークを活かし、博物館や神社仏閣等の観光施設と連携することで新たな顧客を呼び込む。また、世界初のポストペイ制度導入で、今後、環境施策への対応するためのより柔軟な運用や地域づくり連携など交通コミュニティ・カードとしての可能性を示唆。
『スルッとKANSAI』このカード1枚で関西圏の私鉄・地下鉄・バスに切符を買わずに乗ることができます。カードに運賃を貯めておくストアードフェアシステム(以下「SFS」)は、1992年阪急電車で本格導入され、その後『スルッとKANSAI』として関西圏に広がり、現在では『PiTaPa』としてショッピングなどの決済サービスにも対応した非接触型ICカードとなり、ますます便利になっています。
今回の「行動する技術者たち」では、はっきりと意見する関西人の要望に対応し、鉄道会社間の複雑な調整を乗り越え、関西圏におけるSFSの導入とその発展につき、中心的な役割を果たされてきているスルッとKANSAI協議会事務局長横江友則氏を紹介します。
そもそも競合する各鉄道会社が、なぜ料金収受システムを統一できたのでしょうか?きっかけは1995年に起きた阪神・淡路大震災でした。
大震災により阪神間の鉄道は寸断され、鉄道利用の通勤・通学者約45万人は、約2ヶ月間、手持ちの定期券で、阪急電車、阪神電車、JR線を相互に利用できる振替輸送にて移動していました。ところがJR線がいち早く復旧し、JRへの振替輸送が打ち切られたことにより、阪急電車と阪神電車は、利用者への振替票配布による振り替え輸送以外に行うしか手だてがなく、結果として、多くの利用客はJRに移行してしまいました。
この時、少しでも乗り継ぎをスムースにするため、御影駅の自動改札機を他社の定期券でも通れるように改造し、急場を凌ぎました。当時、阪急電車に在籍していた横江氏は「自動改札機は自社以外の乗車券を排除することが目的だったことからすれば、他社の定期券を受け入れるようにしたことは、180度方向転換するぐらいの発想だった」といいます。
その後、落ち込んだ乗客数を取り戻すために、御影駅の改札機を改造した技術の応用で、阪神間を併走している阪急電車と阪神電車の全線で定期券の共通化が行われました。被災時には、やむを得ず実施した定期券の共通化ですが、利用客からみれば、選択経路が増え、また、高速神戸駅以西から梅田駅へ乗車できる電車数も倍増することとなり、「改札機の改造」という小規模な投資が、結果として複々線化と同様の効果を生み出しました。これは異なる交通機関が一緒になって顧客満足度を高めることが企業価値も高めることになることを始めて認識する機会となり、「競争から共創」に大きく方針転換した出来事でした。
阪神・淡路大震災の復旧過程で生まれた「定期券の共通化」の取り組みは「切符を買う手間を省く」サービスの共通化へと進化していきました。すなわち、これまで各社ごとに販売されてきたSFSを共通化するもので、これが『スルッとKANSAI』の実現でした。1996年、阪急電車、阪神電車、大阪市営交通、能勢鉄道、北大阪急行電鉄の5社により『スルッとKANSAI』はスタートし、その後、関西一円の鉄道・バス会社に急速に拡大していきます(現在では50社以上が加入)。
横江氏は「関西のお客様は、良い意味で自分の意見を持ち、しっかりと主張されるため、実現困難な要望もある一方、そのシステムが良いと思えば、自ら広めていただける。例えば、当初『スルッとKANSAI』に加入していなかった他鉄道に対して「なんで通られへんのや」とのご意見を、老若男女を問わず改札口を通る度に言われる。その声が各社を後押し、今日のネットワークが急速に形成されていきました。まさに関西人の気質により商品価値が高められました。」と言います。
さらに、SFSの共通化は「都市内周遊観光」という新しい価値を生み出しました。
そもそも交通は「目的地へ行く」という派生需要であるため、さらなる利用増を図るためには、美術館・飲食店等の目的地とのタイアップが必要です。魅力ある目的地へ『スルッとKANSAI』で行こう、という仕掛けです。SFSの共通化により利用エリア共通の情報誌「遊びマップ」を毎月発行し、入館割引やグルメ情報の発信を始め、併せて、エリア内の乗り放題チケットを販売しました。これによる新規需要は75%に至った、とのことです。
また、新たなマーケットは海外にも向けられました。海外からの観光客が乗り放題チケットを持つことで「運賃表を見て切符を買う」手間、観光地への移動バリアーをなくし、さらに「遊びマップ」で行っている入場割引制度などの特典を付けた『スルッとKANSAI』を海外の旅行代理店にセールスしました。その結果、韓国、香港、台湾、ヨーロッパ等で販売が開始されており、今では、海外での売り上げが、関西以外の国内販売量を上回っている状況であり、外国人の観光集客にも役に立っています。
SFSは全国的に利用されていますが、『スルッとKANSAI』の一番の特徴は「残額10円でも改札を通れる」ことです。SFSのメリットは切符を買う手間が省けることですが、残高不足の時は改札を通れないため電車に乗り遅れることがあります。このような不便は「関東では許されても、関西のお客様は許してくれない」と横江氏はいいます。
そこで横江氏は、残額が10円でも残っていれば改札を通過できるシステムへの変更を試みました。カードや改札機などの技術改修は容易でしたが、鉄道営業法(明治33年法律第65号)の壁が立ちはだかりました。同法第15条に「運賃ヲ支拂ヒ乘車券ヲ受クルニ非サレハ乘車スルコトヲ得ス」と規定され、初乗り運賃のチェックが義務化されていました。しかし、監督官庁への説明・調整と各社の鉄道約款の変更により、後払い精算の導入が可能となり、さらに「後払い」については、「降車時払い」でも「月末払い」でも定性的には同じである、との発展的な解釈により、世界初の運賃後払い(ポスト・ペイ)方式による乗車ICカード『PiTaPa』が誕生しました。
『PiTaPa』には買い物にも使える電子マネーとしてのIC決済機能も盛り込まれており、これにより、公共交通機関を利用して中心市街地のデパートに来て買い物をすれば交通費を割り引く制度も、この機能が付加されたことにより、容易に実現することが可能となりました。
また、オフピーク割引や土日割引などの割引運賃の検討についても、累積されている乗車実績から割引率を計算することができ、期間、イベントや施策に応じた弾力的な料金の適用も可能となりました。
さらにカードと携帯電話の連携によるサービス情報提供(例えば、小学生が駅を通過すれば親の携帯電話に連絡が行く)等、これまでには考えられなかったサービスが『PiTaPa』により実現可能となりました。
図2 スルッとKANSAIの経緯と可能性
スルッとKANSAIに参画する鉄道・バス会社は、現在50社を越え、各企業の連携・調整がこれまで以上に大きくなっています。
各社で構成される事務局では、『スルッとKANSAI』が築き上げてきたシステムを維持し、時には各社の行動規範を越えて、調整する必要が生じます。横江氏は、共創により高めてきた顧客価値をこれまで以上に高めていくため、協議会のクレド(信条)と行動規範を協議会の中で定め、理事会や各部会の会議前にそれを読み上げることにより、共通認識を持ち続け、各社の壁を越えて、お客様の利便性や満足度向上と、新たな価値を創造しようと努めようとされています。
横江氏は技術者ではありません。しかし、これまでに築かれてきた交通基盤を上手く活用することで新たな価値を生み出してきている点は、我々技術者にも非常に機知に富んだ取り組みではないでしょうか。
行動する技術者たち取材班
門間俊幸 Toshiyuki MOMMA 国土技術政策総合研究所 建設経済研究室 主任研究官
参考文献
1)土木学会誌「特集関西発グローカリゼーション」pp16-22,vol.91 no.9,2006
2)スルッとKANSAIの現況「競争」から「共創」へのパラダイムシフト:横江友則,運輸と経済,第62巻第8号,2002.8
3)スルッとKANSAIが拓く関西の公共交通の未来,横江友則,平成16年度日本都市計画学関西支部講演会
2009.11.18
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第10回 競争から共創へ~スルッとKANSAIが拓く交通と地域の新たな価値~(PDF) | 258.06 KB |