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福岡市の玄界島復興担当部長として、全島民が一丸となって復興に取り組むことを支援し、島の復旧・復興に向けて、避難所への転居から整備手法の選定、復興計画(しまづくり案)の策定、事業(工事)の発注・執行管理までに奔走し、約3年という短期間で復興事業をとりまとめた取り組み。
玄界島(福岡市西区)は博多湾の北方沖合20kmの位置し、232世帯・700人(H17.2.28住基)が住む周囲4km足らずの小さな島です。平地が少なく、島民全てが島の東南側緩斜面に居住しており、雁木段と呼ばれる石積み擁壁に挟まれた小路が島民の暮らしを支えていました。
2005年3月20日午前10時53分「福岡県西方沖地震(M7.0)」が発生し、この島では震度6弱~7(震度計が無かったため推定値)の揺れにより緩斜面の擁壁や法面が崩落し、家屋の7割(107棟)が全壊しました。斜面部分の住宅地は余震や土砂崩れなどによる二次災害の恐れがあったため、4月下旬に警戒区域に指定され、仮設住宅による避難生活を強いられることとなりました。
こうした大きな被害を受けたにもかかわらず、全島民が一丸となって復興に取り組み、早々に意見を取りまとめ、行政と協力し、約3年という短い期間で復興事業が完了しました。今回は、福岡市の玄界島復興担当部長として、島の復旧・復興に奔走し、整備手法の選定、復興計画(しまづくり案)の策定、事業(工事)の発注・執行管理までを担当された須川哲治氏を紹介します。
地震前、斜面部分の住宅地は、雁木段を使い、人力で資材を運搬し、島民全員の協力で各住宅が建設されていました。ところが地震により多くの家屋が損壊し、宅地も崩壊しました。この惨状を見て、島民からは『斜面地の土地・建物は放棄する。あとは市で片付けてくれ。』という島の復興をいわばあきらめる発言が発せられました。須川氏は、「このままだと島民は島を離れてしまい、島が廃れてしまう。」という強い危機感を感じました。「力を合わせれば復興できる」という明るい希望と見通しを提供する必要があり、復興に時間をかけると島民は戻って来なくなるという切迫感からスピーディな事業化が不可欠である、と判断しました。
震災2カ月後の5月に開催された全島民による第一回島民総会では、島の代表者で構成する復興対策検討委員会を中心に、島民全員が意見を出し合い、延々6時間を越える議論を重ねました。住民代表者の司会のもと、個別要望を差し控え、百年後の孫の世代まで見据えた意見が参加者に求められ、「斜面地の一体的整備を行政に要望するとともに、島民が一丸となって復興を進めていく」ことが全員一致でまとまりました。「新築の家を放棄するという発言には胸が詰まる思いがした」と会議に参加した須川氏は当時のことを振り返ります。
須川氏は復興事業を進める上で島民の方々との信頼関係が最も重要であったと言います。「信頼されていない中で相手の要求・要望をこちらが拒否すると、相手は背中を向けてしまいますが、信頼関係が出来ているとそれは乗り越えられる」と言います。また須川氏は、島民が胸襟を開いて気軽に声をかけあい易い環境が必要と考えました。 信頼が得られる契機となったのは、梅雨前に、倒壊している家屋から貴重品や家財等の運搬を行ったときのことです。被害が小さかった中学校の体育館を手作りのパーティションで区切り、ここに島民の家財を一時保管することとしました。家財の運び出しに市の職員もお手伝いをすることにより、島民と気軽に声をかけあうことができ、信頼関係が醸成され始められたと振り返っておられます。服装も常に作業服を着て、地元に混じり、声をかけられやすいように努めました。
その信頼関係のもと、島民と市の行政担当者との復旧・復興に向けての事業調整がスタートすることとなります。復興委員会は毎週土曜日に実施され、全68回が開催されました。須川氏は渡船を使って島へ通い、事業期間中に約400回も島を往復しました。また、復興委員と阪神・淡路大震災の復興事業を視察したり、国等への陳情へ同行したりしました。さらに、復興への取組みについて市が方針を公表することは避け、島民総会や復興委員会で決まったことを復興委員会の会長が発表することとして、島民との同意、決定の方法をルール化していきました。
また、島外に仮設住宅の一部が建てられており、島の様子を避難者に知らせるため、復興委員会と市が一緒に『復興だより』を作り、検討会や総会での議論等の情報をオープンにしていきました。
復興事業は被害の大きさ、事業の範囲、目指すまちづくり等に応じて手法を選定することが必要です。福岡市では、当初、土地区画整理事業や小規模住宅地区改良事業の手法を庁内で検討していました。
土地区画整理事業は、都市計画区域外である玄界島で適用するには都市計画手続き等に時間を要するという欠点がありました。小規模住宅地区改良事業では、地震で被災した住宅を不良住宅と読み替える等の適用を受けて、採択要件を満たしましたが、この事業は要綱に基づく事業であり、事業完了まで一貫して住民全員の同意を得続けることが必要となってきます。
7月の第二回島民総会で復興事業手法の説明を行い、小規模住宅地区改良事業により復興を行うことで全員の同意が得られました。須川氏は、「結論から言うとスピート感を要求され、住民の紐帯が強い玄界島には本事業には最適な手法であった」と振り返ります。
震災6カ月後の9月に復興事業がスタートしました。事業の第一歩は被災した土地・建物を買い取るための現地調査です。現地調査は日程調整等のため数年の期間を要する場合もあります。玄界島では復興委員会との共働により1カ月程度で各戸の調査が行われました。その結果、11月の第四回島民総会で土地・建物の補償基準を示すことができ、同年12月には、島民に対して戸建住宅を再建するか、公営住宅に住むかの最終の意向調査を行いました。これを受けて年明け1月の第五回島民総会では、ほぼ全ての世帯が復興事業に参加することとなり、しまづくり案が決定されました。しまづくり案の決定までには、ワークショップや座談会を開催し、島民の考える島の将来像についての意見をとりまとめ、その結果、島の中心部である漁協前周辺は、島内で最も便利な場所であるため、みんなが使える公共の場所として確保することや、斜面地に車が通れる道路の整備することで、従前の生活での苦労を解消したいという意見が取り入れられた案となりました。
また、戸建住宅地については、島が都市計画区域外で建築制限が緩いことから無秩序な土地利用となってしまう可能性があったため、戸建ての住民で構成する戸建て協議会を作り、壁面後退の距離や階数規制等の防災性と建物の色等の景観に関する自主的なルールづくりも手掛けられ、島の統一感を担保していきました。
土地建物の買い取りが進み、解体工事がちょうど地震後1年後の2006年3月に開始されました。また、同10月より造成工事が開始され、造成が進んだところから戸建て工事が進み、3年後の2008年3月に復興事業が完了し、住民の帰島が実現することとなりました。
復興事業の方針に関し住民主導で決定していくには、行政の柔軟な対応が求められます。須川氏は「役所では過去の前例に習って仕事をするのが得意だが、ここではそれは通用しない。それぞれの場面で創意工夫が必要である。」と言います。「島民の思いをしっかり受け止め、その実現に向けてベストを尽くす」ことが、地元との円滑な連携を育み、早期復興事業の完成に繋がったのではないでしょうか。
行動する技術者たち取材班
門間俊幸 Toshiyuki MOMMA 国土技術政策総合研究所 主任研究官
渡邉一成 Kazunari WATANABE 一般財団法人(非営利)計量計画研究所 主任研究員
参考文献
1)福岡市玄界島震災復興記録誌
2012.2.27
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第18回 島民の思いを受け止め復興・再生へ奔走~福岡県西方沖地震・玄界島震災復興の取組み~(PDF) | 296.13 KB |
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