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2024年度会長プロジェクト 土木学会の風景を描くプロジェクト

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最終更新: 42分 56秒前

橋のある風景...そこに愛はあるのか... エピソード4:コモンズ(共有財)としての在り方を考える

火, 2025-05-13 11:58

岩手県気仙郡住田町、気仙川に架かる木の橋「松日橋」。増水時は、ばらばらに流され、後日、ワイヤーロープで繋いでおいた部材を回収して復旧される。
この橋が大好きだという建築家、乾久美子さんに、どのあたりに魅力を感じるのかを伺いました。

【エピソード4】 

[テーマ] コモンズ(共有財)としての在り方を考える
[出演者] 
ゲスト:乾 久美子さん(建築家、Inui Architect / 横浜国立大学大学院Y-GSA教授))  
司会:松井 幹雄さん(土木設計家、大日本ダイヤコンサルタント株式会社) 

[Inui Architect(乾久美子建築設計事務所) Web Site] 
https://www.inuiuni.com/

  

イイねボタンと応援メッセージ、質問、コメントはYouTubeのコメント欄または、動画概要欄に記載のメールアドレス宛にいただけると嬉しいです。

 

新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクトひろがるインフラWG
カテゴリ: 各委員会サイトのお知らせ

やまだばし思い出テラス/解体した旧橋の高欄からの眺めを保存

金, 2025-05-09 09:22

仕事の風景探訪:事例4【デザインのチカラ】【コミュニティのチカラ】【記憶のチカラ】

事業者:鹿児島県
所在地:鹿児島県姶良市下名地内
取材・執筆:ライター 大井智子
編集担当:高尾忠志((一社)地域力創造デザインセンター代表理事/仕事の風景探訪プロジェクト・九州支局長)、羽野 暁(九州大学)

県道が通る新山田橋のすぐ上流側に、川に面した小さな芝生広場が点在する。架け替えによって撤去した旧橋の面影をとどめるため、2019年に鹿児島県が整備した「やまだばし思い出テラス」だ。完成から6年──現在テラスは、地域住民の日常の休息場所となっている。

昭和初期に建造されたモダンなコンクリート橋が、どのような経緯をたどり、姿を変えて再生の道を歩んだのか──広場整備に至る住民参加のプロセスをひも解いてみた。

県姶良市を流れる山田川に架かっていた旧山田橋は、1929年に建造されたコンクリート橋だ。川の増水時に流木が堆積するなど治水上の課題を抱えていたことから、県は橋の架け替えを実施。旧橋の隣に新橋を設置し、橋詰めなどの道路残地を活用して広場を整備した。3カ所の広場は、いずれも旧橋の軸線上に配置する。

昔と変わらず重厚な姿を見せるのが、高さ3mの親柱だ。ツタに覆われた柱など、右岸と左岸にそのままの位置で保存した。親柱の間には、旧橋の解体時に切断して保存しておいた高欄を設置。高さをかさ上げすることで、転落防止柵として再利用した。

まるで旧橋をコンパクトに縮めたような姿は、高欄から川を眺めていた住民たちのかつての体験を思い出しやすいようにデザインしたものだ。


西側からの空撮。新山田橋の写真上側に旧山田橋が架かっていた。旧橋の軸線上の3カ所に芝生広場「やまだばし思い出テラス」を整備した。(写真:日経クロステック2019年12月3日掲載 撮影:イクマ サトシ)

高欄や橋脚にアーチ形状が連続する個性的な橋

オブザーバーとしてテラスの設計に加わったのが、九州大学キャンパスライフ・健康支援センターインクルージョン支援推進室で特任准教授を務める羽野暁さんだ。当時は霧島市にある第一工業大学(現・第一工科大学)の講師として、戦前のコンクリート橋を研究していた。

初めて山田橋を訪れたのは2013年。親柱がそびえ、高欄や橋脚にアーチ形状が連続する個性的な姿がそのまま残っていることに、大きく心を揺さぶられた。

関東大震災以降に各地で造られた鉄筋コンクリート橋は、100年残ると言われていたことから「永久橋」と表現されていた。水害のたびに流されていた木橋に代わり、各地域の一大事業として多くの費用を掛けて丁寧に建造されており、旧山田橋もそうした橋と思われた。

設計図は残っておらず設計者もわからない“無名橋”だが、アーチをくり抜いた形状が反復するデザインは何か意図がありそうだ。手仕事が残る造形は地域の設計者や施工者が相当のプライドと誇りをもって造り上げたに違いない── 羽野さんは、そう考えた。

しかし、当時はすでに橋の架け替えに伴う旧橋の解体撤去の方針が決まっていた。新橋は旧橋の10mほど下流に架かる計画だということも分かってきた。同じ位置の架け替えでなければ、人道橋として残せるかもしれない。「それには自分が行政側に橋の価値を伝えるだけでは不十分だ。地元の人たちが橋の保存を望む声を上げる必要がある」と、羽野さんは考えた。


解体前の旧山田橋。1929年建造で、橋長約60m、幅員約6m、6径間の鉄筋コンクリートT桁橋。橋脚や高欄にアーチ形状が連続する(写真:羽野 暁)


橋の上から見た解体前の旧山田橋。旧橋の1径間は約9mで4つのアーチが描かれていた。高欄の切断ではアーチ形状を保った7種類の長さにワイヤソー工法で切断し、転落防止柵やベンチに再利用した(写真:羽野 暁)


左岸側のテラス。旧橋の親柱はそのままの位置で保存し、間に2分の1径間の高欄を収めた。2019年に撮影(写真:大井 智子)

旧山田橋のインフラとしての価値は「町の歴史の舞台になっている」こと

橋の魅力を地域の人に伝え、しかも自ら沸き起こる思いで行動してもらうためには、ワークショップでアイデアを募ったり、行政のアドバイザーとして地域に乗り込んだりする従来のやり方だけでは難しい。実践したのが、「地域の日常のコミュニティに勝手におじゃまして、仲間に入れてもらうこと」だった。

第一工業大学の学生とともに最初に取り組んだのが、旧山田橋の歴史の聞き取り調査だ。山田地域のお年寄りを訪ねて話を聞いていくうちに、旧橋の橋脚や高欄のデザインは国の文化財「山田の凱旋門」のアーチ形状を取り入れたらしいということがわかってきた。さらに、「橋があるのは幹線道路でしょ。せっかくだから鹿児一の橋を造ろうと、親柱に街灯がついたんですよ。それできれいな橋やったんですよ」といった話も聞くことができた。


国登録有形民俗文化財指定の「山田の凱旋門」。日露戦争の従軍者の帰還を祝い1906年に建造された。やまだばし思い出テラスから500mほど北側にあり、旧山田橋と凱旋門をつなぐ新馬場通りは当時メーンストリートとして栄えた(写真:羽野 暁)

ただし、圧倒的に多かったのは橋そのものの話よりも、「凱旋門と橋をつなぐ新馬場通りは商店街が立ち並んでいてにぎやかだった」「橋の上を駅馬車が通って、近くに旅館があった」といった橋にからめた古い記憶だった。

橋のデザインを美しいと思って始めた調査だったが、地域の人はそこまでデザインを重視していないのかもしれない。「それよりも、『親子3代の渡り初め式があったんですよ』『戦争中に落ちた爆弾が、橋の横にそれてですね』など、橋は地域の人たちの思いや記憶とつながっていたのです。調査を通して、旧山田橋のインフラとしての価値は『この町の歴史の舞台になっていること』なのかと気がつきました」。そう羽野さんは振り返る。

たとえ土木に関心がなくても、大人も子どもも橋の記憶を共有する方法として、羽野さんの頭のにひらめいたのが、紙芝居だった。さっそくパソコンを駆使し、聞き取り調査の話を土台に計15枚の「歴史紙芝居」をつくり、第一工業大学の学生とともに旧山田橋近くの山田小学校で上演した。

このときにある児童が発した言葉をきっかけに、その後、旧橋をめぐる動きが世間の注目を浴びるようになっていった。


計15枚からなる「歴史紙芝居」。創建当初は親柱に橋灯が灯っていた(写真:羽野 暁)


2015年12月に山田小学校で「歴史紙芝居」を上演した。児童のほか地域の人たちも観劇した。会場には旧山田橋の20分の1の模型を持ち込んだ(写真:羽野 暁)

紙芝居では、「創建当時の山田橋は橋灯が灯っていた」「橋灯は戦時中に撤収された」ことが紹介されていた。紙芝居が終わって質問タイムになった時のことだ。1人の児童がすっくと立ちあがり、「僕が山田橋くんに照明をつけてあげたい」と言ったのだ。

10年前にこの発言をした高橋暖樹さんに、今回の取材で話を聞くことができた。

保育園の時からずっと毎日、旧山田橋を渡っていたという高橋さんは、「橋は間違いなく、山田の凱旋門に次ぐ地域の第2のシンボルです」と力を込める。

「橋がなくなってしまうと知り、とても寂しく思い、それで照明をつけてあげたいと言ったのです。壊されてしまうのはいやでした。でもその後、新たな形に生まれ変わると知って、ほっとした。形が変わっても、親柱や高欄を活用して橋のなごりを残してもらえたのは最高です。あそこは今も僕の場所だと思っています」。

撤去間近の橋に灯篭を灯す

話を当時に戻そう。

「照明をつけてあげたい」という発言は、それからずっと羽野さんの心に残っていた。紙芝居から約1年半後に新山田橋が完成すると、新旧2つの橋が隣り合い、共存する状態が10カ月ほど続いた。「もうすぐ取り壊される旧山田橋が歩行者天国のようになっていて、『もったいないな』と思いました。紙芝居の時の児童の発言を思い出し、橋の上で灯篭を灯すイベントをしてはどうかと思ったのです」。

そう考えた羽野さんはさっそく山田小学校に、イベントで使う灯篭づくりのワークショップを持ちかけた。ワークショップでは、灯篭を覆う和紙に旧山田橋とつながる日常の風景を描いてもらった。「描くのは橋そのものじゃなくていい。橋から見た風景でも、川にいる生き物でもなんでも構わない。自然の風景など橋と一緒にある記憶を描いた灯篭で、橋を送り出したいと思ったのです」。


2017年9月に山田小学校で「灯篭づくりワークショップ」を開催。全校児童70人のほか、保護者や住民が参加し、灯篭を覆うための和紙に、カワセミやアユ、竹林など山田の豊かな風景や橋での記憶を描いた(写真:羽野 暁)

90年近く現役として使われ続けた橋に感謝の思いを伝える灯篭点灯式は、地域で開催される「山田の里かかし祭り」の前夜祭として実施された。

「誰も来ないんじゃないか」。そんな羽野さんの心配をよそに、山田地域内外から200人あまりの人が旧橋に詰めかけた。150基の灯篭で彩られた橋の上では、お年寄りの間で「橋の上を渡って嫁入りしたのよ」「この橋から夫を戦地に送り出したね」といった井戸端会議が交わされていた。それを聞きながら羽野さんは、「橋というモノが残っているからこそ日常の話がよみがえるんだ。すべて消えたらどこまで明確に記憶を思い出せるのだろう。何とかして橋の記憶を残したいという思いが一層、強くなりました」という。

点灯式の様子は地域の放送局や新聞各社によって大きく報道され、旧山田橋の存在が地域外の人たちにも広く知られることになった。これを受け、旧橋の解体撤去の中止と人道橋としての市への管理移譲を求める請願が県と市に提出されたが、いずれも県・市議会が不採択とした。


2017年9月22日のイベントでは200人を超える人たちが旧橋に詰めかけた。イベントには報道関係者や県議会議員、行政職員も訪れた(写真:羽野 暁)


イベントでは親柱にも明かりが灯された(写真:羽野 暁)

旧橋解体に伴い、高欄の再利用を行政に要望

イベント以降も旧橋にからむ活動は継続し、一部では自走するような動きも生まれてきた。

点灯式の翌日から開催された「山田の里かかし祭り」では、山田小学校の6年生が旧山田橋のかかしを作って、出展した。祭りの一環として、児童自ら地域の人たちに「歴史紙芝居」を披露もした。その後、羽野さんは山田小学校の6年生を対象に、旧山田橋をテーマとした道徳の授業を担当。生徒と一緒に旧橋にかかわる活動を振り返り、これからの山田地域について考えた。


2017年9月の「山田の里かかし祭り」で山田小学校の6年生が旧山田橋のかかしを作成した(写真:羽野 暁)


2017年9月の「山田の里かかし祭り」で旧山田橋の歴史紙芝居を上演する小学6年生(写真:羽野 暁)


2017年11月、羽野さんは小学校6年生の道徳の授業を担当した(写真:羽野 暁)

旧橋が世間の耳目を集める中、山田地域で地道に活動を続けてきた羽野さんは、旧橋への多くの人の思い出を聞きながら、橋の架け替えに対する住民の複雑な思いも感じてきた。

地域の任意団体「山田校区コミュニティ協議会」で会長を務める瀬戸口勉さんは、小学校時代は毎日、旧山田橋を通っていた。夏は川べりにホタルが舞い、幼いころの遊びは橋が架かる山田川での魚とりからスタートした。「旧橋は立派な親柱があって、高欄はアーチ型にデザインされ、路面もタイル張りでおしゃれな橋というイメージでした。近所の木の橋がしょっちゅう洪水で流される中、旧山田橋だけは頑丈なコンクリートのきれいな橋でした」と懐かしそうに話す。大人になって就職した時も、バスで旧橋を渡りながら都会に向かって出発した。「旧山田橋は生活の一部で、常に日常の中に存在していました」

一方で、ぬぐうことのできないつらい記憶もあった。30年前の水害では川の水が溢れて橋を越え、地域に大きな被害をもたらし、犠牲者も出た。橋脚が5本と多いため、大水のときは流木が引っかかって水が溢れた。洗堀によって橋脚の基礎は露出していた。瀬戸口さんは、「懐かしい橋は残したい。けれどもこれじゃいかんね。いずれは架け替えないといけないね。そう考える住民も少なからずおりました」と打ち明ける。

地域の人との話し合いを重ねた羽野さんは灯篭点灯式の半月後、山田校区コミュニティ協議会のほか地域の区長や学校長などと連名で、姶良市長あてに「山田橋の解体に伴う高欄の再利用に関する要望書」を提出した。「橋の保存がかなわぬことは大変残念」としたうえで、戦前期の橋梁の文化的価値と豊かな山田地域の記憶を残すために、「橋の解体に伴い、高欄をベンチや転落防止柵などに再利用すること」を要望した。市は、すでに旧橋の橋詰めなど道路残地の整備を決めていた県と協議を重ね、両者は広場整備における高欄の再利用を決定した。

旧山田橋の劇をつくる

旧山田橋を舞台とした活動を体験した山田小学校の6年生は、地域住民と第一工業大学が連携して作成した手ぬぐいを卒業式で贈られた。卒業式に招かれ、旧山田橋がプリントされたてぬぐいを児童に手渡した羽野さんは、「周りでは式に招かれた地域のおじいさんやおばあさんが卒業生を温かく見守っていました。そんな様子を見ながら、涙が止まらなくなってしまいました」と懐かしそうに話す。


卒業生に旧山田橋をデザインした手ぬぐいが贈られた(写真:羽野 暁)

「手ぬぐいは、今も大事にしまっています」。そうほほ笑むのは鹿児島大学1年生の西眞帆さんだ。小学校4年生の時に「歴史紙芝居」を見て、6年生の時に「灯篭イベント」に参加し、「旧山田橋のかかし」をみんなで作った。西さんに、当時の思い出を聞いた。

「新山田橋は現代風で高さが高くなってしまいましたが、旧橋は高さが低くて水面に近く、橋から川の様子を眺めるのがとても楽しみでした」。中学生になると、授業の一環で歴史に関する劇をつくって演じるという課題を与えられた。クラスのみんなでテーマに選んだのが、小学校時代に深くかかわった旧山田橋だった。

旧橋の歴史を知る人を訪ねて当時の話を聞き、自分たちで台本を作成した。第二次世界大戦で旧橋付近に爆弾が落ち、近隣の旅館が燃えたことなどの史実をベースに、劇を演じた。

山田校区コミュニティ協議会の山下裕子さんは、当時、この劇を見に行ったことを覚えている。1時間ほどの劇で、戦争で橋のたもとにあった旅館が燃えてしまうが、火でこげたみそ樽だけが残った。旅館のおかみ役を演じた西さんがみそ樽のみそを指に取ったところで、劇は終わる。「観劇している人の中には若い人も多く、自分も含めて、この劇を通して細かな地域の歴史を知りました。劇を見ながら、もうすぐなくなってしまう旧山田橋を思い、橋の記憶をとどめておきたいという気持ちが強くなっていきました」。山下さんはそう振り返る。


羽野さんと、小学校6年生の時に歴史紙芝居を観劇した西真帆さん(写真:大井 智子)

「主役は橋そのものではなく、橋を舞台とした思い出」

県による、広場整備の当初のたたき台案は、川沿いに柵を巡らせ、高欄はオブジェとして一部を残すというものだった。オブザーバーとして設計に加わっていた羽野さんはこれに対して、広場に芝生を敷き詰め、旧橋の高欄を転落防止柵としてたくさん活用することを提案。これが実現した。

旧橋の1径間は約9mあり、高欄に4つのアーチが描かれていた。橋の解体時は、高欄のアーチ形状を崩さないように2~5.5mの7種類の長さに切り分けた。5.5mの長さの高欄は、現地にそのまま残していた親柱の間にぴったりと納まった。転落防止柵として再利用する高欄は、現行基準を満足するため基礎を補強した上で高さを1.1mにかさ上げした。高欄の連結部や端部は、新たにデザインした柱を造り、高欄の基礎と一体化した。


高欄はアーチの形を崩さないように2~5.5mの長さの7種類の長さに切り分けた(写真:羽野 暁)


2019年竣工時の左岸側テラス。高欄との連結部や端部の柱は、既存の親柱とモチーフを合わせて羽野さんが新たにデザインし、高欄の基礎と一体化した。コンクリートには顔料を混ぜ表面は洗い出し加工を施したが、竣工当初は新旧の違いがよく分かった(写真:羽野 暁)


現在の左岸側テラスに立つ羽野さん。竣工から6年が経過し新旧コンクリート部材の違いは目立たなくなっていた(写真:大井 智子)

鹿児島大学の西さんは、「旧橋の歴史の中にその時代を生きてきた人の思い出があり、今の私たちの世代にも思い入れのあるものがあります」と言う。そうした思い出はどちらも対等なものだから、残していった方がいいと考えている。「本当の橋はなくなってしまったけれど、親柱や高欄があるのでかつて存在していたことが感じられます。テラスがあることで思い出が残る。それは大切で、とてもいいことだと思うのです」。

完成した「やまだばし思い出テラス」は姶良市が管理し、5~10月の期間は山田校区コミュニティ協議会などが月1回の草刈りを実施している。

コミュニティ協議会の山下さんは、「当時、旧山田橋は地域のシンボルで、橋を渡ることで『山田の里に戻ってきたんだな』と感じていました」話す。保育園に子どもを送り迎えする際に橋の上で子どもと川を眺めていると、通りかかった知り合いの車がスピード落として「何みとっとよ」「魚はおいやー」と声をかけてきたという。「橋の上は地元の人のコミュニケーションの場でもありました」。


2019年の竣工当時の左岸側の広場(写真:羽野 暁)

コミュニティ協議会会長の瀬戸口さんは、橋の面影を残すために次々と繰り出されてきた羽野さんの発想が、「いまも、不思議で、不思議でたまりません」と感心する。小学校で紙芝居をして、橋の上で点灯式をして、かつて川を眺めていたイメージを再現したテラスをデザインして──「旧山田橋はなくなりましたが、親柱も高欄も残っている。これからも、橋があったことが頭から消えることはゼッタイありません」とうれしそうに話す。


山田校区コミュニティ協議に集まってもらってメンバーに話を聞いた。左から、協議会の山下裕子さん、事務局長の﨑山亮一さん、会長の瀬戸口勉さん、羽野さん(写真:大井 智子)


右岸側の親柱。テラス整備で親柱を現地保存する際、絡まっていたツタもそのまま残した。今は新設した柱にもツタがはっている(写真:大井 智子)


右岸側のテラスから眺めた山田川。写真奥側に魚道がある(写真:大井 智子)

羽野さんにとって地域の人と日常的にかかわっていたインフラを整備する経験は初めてで、試行錯誤の連続だった。テラスとして橋の面影を残すことができた要因はいくつかある。当時の勤務地が現場に近く、地域と密接な取り組みができたこと。さらに要因として、「橋から見た時の周りの景色に恵まれていたことがありました」という。

清流と言われる山田川は多くの水鳥が訪れ、川が湾曲して水深が深いところは湖面のように水面が静かだ。かと思えばテラス近くの堰では、水音としぶきを上げながら勢いよく水が流れ落ちていく。こうした環境が整っていたからこそ、視点場としてのテラスを残すことができたと考えている。「主役は橋を舞台とした思い出。旧橋の高欄に寄りかかって眺めていた清流の流れや魚道の様子、山並みのほか、水しぶきなどを五感で感じた体験を思い出すことのできる場にしたいと思ったのです」と話す。

現在、テラスは姶良市観光協会が作成した観光コースのルートに組み込まれている。日常的には、地域の人たちが新たに置かれたベンチに座って川を眺めたりしている。コミュニティ協議会の事務局長を務める﨑山亮一さんは、テラスに込めた思いを若い世代へと継承していくために、ミニコンサートや明かりを使ったイベントができないかと考えている。「夏の夕暮れに右岸と左岸の広場に灯篭を置き、親柱に明かりをともせば両岸がつながり、橋がイメージできると思うのです。うん、やる気は十分です」と、力強くうなずいた。


2019年に撮影した右岸側の広場。旧橋の橋詰めを活用し、道路を挟んで2カ所に飛び地する。写真中央の手前で縦方向に並ぶのは、高欄を埋め込んだベンチ(写真:羽野 暁)

 

 

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仕事の風景探訪プロジェクト ニュースレターVol.5

木, 2025-05-08 09:28

「やまだばし思い出テラス」【予告記事】

【事例キーワード】
①技術のチカラ ②デザインのチカラ ③自然のチカラ ④コミュニティのチカラ ⑤記憶のチカラ

九州支局長を務めております一般社団法人地域力創造デザインセンター代表理事の高尾忠志です。今回は鹿児島県姶良市の事例を紹介する記事です。新しい橋の建設とともに解体撤去されるはずだった「旧山田橋」に関わる素晴らしい取り組みです。

1929年に築造され、長年にわたって地域住民の暮らしの舞台、思い出の場所となった橋の価値を再発見する人の輪が、小学校の子どもたちを中心にして次々と繋がっていき、行政もそれに応えて、橋にまつわる記憶を大切にした場所が実現しました。そしてその取り組みプロセスの記憶も、そこに関わった地域住民や若い世代にも深く刻み込まれています。

市民の暮らしを支える土木構造物の価値が注目されることは残念ながらそう多くはありませんが、実はそこに暮らす人々の心の中に確かに存在しているのかな、と私も土木に関わる一人としてとても嬉しく拝読しました。そんな取り組みを進めてこられた羽野先生をはじめとする関係者の皆様に心から敬意を表したいと思います。

ライターの大井さんの愛のこもった素晴らしい記事となっておりますので、ぜひご覧いただけましたら。


解体前の旧山田橋は橋脚や高欄にアーチ形状が連続するなどデザイン性が高く、地域住民に愛されていた(写真提供:羽野 暁)


2019年の竣工当時の左岸側の広場。橋の記憶が継承されていく風景(写真提供:羽野 暁)

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クマジロウの教えてドボコン!エピソード8:理事会ってなに?

火, 2025-04-29 08:23

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第112代土木学会会長のプロジェクトの1つ「クマジロウの教えてドボコン動画配信」では佐々木葉会長の家族のくまのぬいぐるみ“クマジロウ”が、土木学会のコンシェルジュの“ドボコン”に素朴な質問をします。短い動画で土木学会のしくみや活動をお伝えします。あれ?そうなの?なぜ?と今までのあたりまえを考えるきっかけになるかも。気楽にお楽しみください。

エピソード8:理事会ってなに?

今回は、土木学会の運営方針についての議論や提言の最終決定などを行う場である理事会について紹介します。
理事会の制度だけなく、理事会メンバーの女性比率についても取り上げています。

土木学会役員https://www.jsce.or.jp/outline/director.shtml
土木学会宣言・提言https://www.jsce.or.jp/strategy/index.shtml

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富士山の眺望を妨げる消波堤を撤去! 海岸保全との両立を果たす静岡県の挑戦

土, 2025-04-26 17:15

仕事の風景探訪 事例3【技術のチカラ】【デザインのチカラ】

事業者 静岡県河川砂防局、静岡県静岡土木事務所
所在地 静岡県静岡市
取材・執筆:ライター 茂木俊輔
編集担当:岡田智秀(日本大学理工学部/仕事の風景探訪プロジェクト・リーダー)
撮影(特記以外):岡田智秀(前掲)
 


(写真提供:静岡県)

静岡県の名勝地である三保松原近くの清水海岸から富士山を望む、おなじみの風景だ。上は2024年12月の撮影、下は2013年12月の撮影。この10年でずいぶんすっきりした。理由は、かつて水平線から頭を出していた消波堤が、ほとんど姿を消したことにある。

消波堤を撤去したのは、海岸管理者の県だ。芸術の源泉とさえ言われる霊峰富士への展望としては、今のほうが明らかに落ち着く。景観の改善策として、大成功だ。

なぜ今、景観改善なのか――。発端は、富士山の世界文化遺産登録にある。登録は、2013年6月。周辺の神社や湖沼など25の構成資産とともに登録されている。

ところが、そのわずか2カ月前には、審査にあたる国際記念物遺跡会議(イコモス)が、三保松原を25の構成資産から除外することを前提に富士山の登録を勧告していた。理由の一つが、三保松原から富士山に対する展望が審美的な観点から望ましくない、というもの。その観点から邪魔者扱いされていたのが、姿を消すことになる消波堤なのである。

結果的には逆転劇が起こり、三保松原も構成資産の一つとして認められた。しかし、審美的な観点から望ましくないという問題は残されたまま。県は三保松原が構成資産から除外されないように、イコモスの勧告を正面から受け止め、問題解消に乗り出すことを決める。

「危機感からですね。世界文化遺産には登録抹消の事例もあります。イコモスからの課題を海岸管理者として何とかしなければならないという思いでした。県河川砂防局長の山田真史氏は、同局河川企画課で海岸企画班長を務めていた当時の気持ちをこう思い返す。

景観改善に乗り出すうえで課題になったのは、海岸保全との両立である。


(写真提供:静岡県)

は長年、安倍川河口から三保松原方向に伸びる静岡海岸や清水海岸の保全に取り組んできた。これらの海岸には、安倍川から流れ出る砂礫が沿岸流で運ばれ、堆積してきた。ところが、高度経済成長期に安倍川の砂利が大量に採取されるようになると、砂礫の流出が減少し、砂浜の堆積域が狭まる一方で、侵食域が広がり始めた。1980年前後には、台風の高波による越波で背後地の道路が何度も被災するほど。背後地の防護が求められるようになる。以降、県は離岸堤や消波堤など海岸保全施設を築造する一方、海岸や河川への堆積土砂で養浜を繰り返してきた。

姿を消すことになる消波堤も、この時期に海岸保全施設として築造されたもの。ただ撤去するだけでは、それまでの取り組みに逆行してしまう。イコモスの勧告を踏まえ、景観上望ましくない消波堤を撤去する一方で、背後地の防護に向け、砂浜の回復につながる取り組みも欠かせない。この景観改善と海岸保全の両立という難題に、静岡県は挑んだのである。

県河川砂防局ではまず、学識経験者との二人三脚体制を築く。2013年8月、元文化庁長官の近藤誠一氏を座長とする三保松原白砂青松保全技術会議を設立。海岸工学や景観工学を専門とする学識経験者の協力を仰いだ。「海岸保全と景観改善の両立は海岸管理者の県だけでは乗り越えられない難題です。それに向き合うには、専門家の協力が欠かせませんからね」。県河川砂防局河川企画課課長代理の横山卓司氏は構成メンバーに込めた思いを明かす。

保全技術会議は2015年3月、最終報告書を公表。目指す姿を人工構造物に頼らない砂浜の自然回復に置いたうえで、向こう30~50年かけて砂浜が自然回復するまでの間、1号から4号までの消波堤を背の低いL型突堤に置き換えると同時に養浜を実施するという対策を打ち出した。

またL型突堤への置き換えを想定する場所は、海底勾配がきつく、波が減衰することなく押し寄せる。そのため、対策の詳細を検討するうえで利用した地形変化の予測と実際との間でズレが生じかねない。継続的なモニタリングとその結果に基づく順応的な対応の重要性も同時に説いた。

県河川砂防局では2015年度以降、ここで打ち出された対策に取り組んでいく。2015年4月には、保全技術会議の後継組織として三保松原景観改善技術フォローアップ会議を設立。県が定めるモニタリング計画を基に景観改善や海岸保全への効果と突堤本体や周辺環境への影響を定期観測し、状況の変化を踏まえながら順応的な対応を取るための体制も整えた。

最初に手を付けたのは、1号消波堤をL型突堤に置き換える工事だ。「羽衣の松」の近くで多くの観光客が訪れる地点から富士山を望むと、この消波堤が目に入る。景観上、最も問題視された消波堤であることから、L型突堤への置き換えを急いだのである。

L型突堤の横堤は9つの函体を鋼管杭で固定したもの。被覆ブロック張りの縦堤との組み合わせで、波の勢いを弱め、砂浜の侵食を食い止める一方、海中の漂砂を捉え、砂浜に堆積させる。「背後地の防護に必要な砂浜の幅は80m。消波堤を撤去しても、砂浜をその幅まで回復させられる性能の確保を目指し、砂の流れを50分の1模型で再現しながら堤体の構造を検討しました」(横山氏)。

L型突堤の設置を2019年3月に終えると、次に消波堤の撤去が待つ。

問題の一つは、どこまで撤去するか。景観改善の観点からは完全撤去がベストだが、経済性や実現性を考えると極めて難しい。こうした課題を検討するのも、フォローアップ会議の役割だ。そこでは、撤去レベルとして想定される4つの段階を、景観改善と経済性・実現性の観点から比較検討し、最適と考えられる到達目標と、より現実的な暫定目標を定めた。

もう一つ、撤去方法も問われた。「設置から数十年たっていますからね、消波ブロックはがっちりかみ合い、間には砂が入り込んでいる。そう簡単には除去できそうにない。施工会社と相談しながら、撤去方法を探っていきました」(横山氏)。最終的には、突起部にワイヤーを巻き付け、海側から起重機船で吊り上げる方法を採用。1日5~6個を除去する想定だ。

1号消波堤は結局、暫定目標レベルの高さまで撤去した。この高さに抑えれば、多くの観光客が訪れる富士山への視点場から眺めたとき、消波堤は鉛直方向の視角で1度の範囲内に収まる。「その程度の見


(写真提供:静岡県)

え方なら対象物の存在は気にならないという景観工学の知見に基づいています」。海岸景観の専門家として技術保全会議とフォローアップ会議に参画してきた日本大学理工学部教授の岡田智秀氏は目標設定の拠り所を解説する。

消波堤からL型突堤への置き換えと並行して、砂浜の回復に必要な養浜にも取り組んだ。県河川砂防局では、そこにも景観改善の視点を取り入れる。1号消波堤の背後に広がる砂浜には堆積土砂をただ盛るだけでなく、盛り土の見え方にもこだわった。多くの観光客が訪れる富士山への視点場から眺めたとき、富士山の手前で養浜盛土が塊として存在感を放つからだ。

「フォローアップ会議の開催に向け、景観に配慮した養浜盛土の検討について提案を受けた時は、『目からウロコ』でしたね。そんな発想があるのか、と。ただ視点場から富士山を眺めたとき、その手前に存在する盛り土は確かに、盛り方によって見え方が違う。勾配一つとっても、自然な印象を受ける角度があることに気付かされました」。山田氏は往時を振り返る。

養浜盛土のデザインについては、フォローアップ会議の委員で景観工学を専門とする東京大学名誉教授の篠原修氏と同じく岡田氏の協力の下、2015年9月から11月まで養浜景観勉強会を開催し、集中的に検討した。「景観に配慮した養浜盛土の基本原則」をまとめたうえで、養浜盛土の区域を中心とする300分の1模型を基に、養浜効果も踏まえながら基本形状を決めた。

ただ、形を一度整えれば終わり、というものではない。波による流出は自然の営為としてむしろ歓迎。海岸全体として見れば、養浜にもつながり得る。しかし、養浜盛土の法尻がざっくりと削られ、浜崖と呼ばれる崖状の断面が現れるようになると、景観上は好ましくない。「元の形状が崩れると、状況に応じて整形し直しです。定点観測が欠かせません」(岡田氏)。

そうした「海浜形状の変化」は、「海岸構造物の見え」とともにモニタリング項目に位置付け、主要な視点場から年3~4度、撮影した写真を通じて定点観測してきた。モニタリング計画に位置付けられたモニタリング項目は、この2つを含む全19項目。最低でも年1回は観測する。その結果は毎年、フォローアップ会議で報告し、評価を加えている。

「景観改善の面でも海岸保全の面でも、想定通りの効果を上げられています。1号消波堤の部分撤去で背後の砂浜が侵食されないか、心配していましたが、モニタリングの結果を見る限り、その恐れはありません。砂浜の幅は目標の80mを確保できています」。横山氏は胸をなで下ろす。

事の発端は景観改善だが、それ以前から注力してきた海岸保全で一定の効果を上げられたのは大きい。「砂浜の侵食は全国の問題です。どの海岸でも回復にまでは至らない中、ここでは一定の効果を上げられています。景観改善の価値も、だからこそ生きるんじゃないでしょうか。奇跡の二重奏ですよ」。県静岡土木事務所工事第2課班長の大塚一臣氏は誇らしげに思いを口にする。

県では目下、2号消波堤と置き換える離岸堤の設置に向け、準備中の段階だ。当初の計画では1号と同じL型突堤を想定していたが、台風で被災した2号消波堤の消波ブロックが海底に散乱していることが分かり、フォローアップ会議で設置位置を再検討。複数案を景観改善と海岸保全という2つの観点から比較検討した結果、2号消波堤を挟む南北の位置に横堤を設置する方針を固めた。

先行するのは2号消波堤の南。ただ計画を具体化していく過程で新たな事態が明らかになる。「2020年度の測量結果を基に堤体を設計したものの、この間、大きな台風はなく、漂砂が堆積して海底地形が変化していたんですね。計画位置では莫大な量の掘削が必要になると分かったんです」と県静岡土木事務所工事第2課総括主査の梅原裕氏。設計済みの堤体が最も効果を上げられる設置位置をフォローアップ会議で再検討し、沖合に28mずらすことになった。

担当者の頭を悩ませる課題は、相次ぐ変更だけではない。予算担当にとっては今、コスト高が最大の悩みだ。1号消波堤の置き換えであるL型突堤の設置工事費は予算額で約16億円。2号消波堤の南に設置するのは横堤だけで縦堤はないため、その分、安くなりそうだが、現実は甘くない。

「設置するのは横堤だけでも、位置を沖合にずらしたため、海底地盤まではより深くなるんです。それでも、最初は20億円くらいを想定していましたが、近年、労務費や資材価格が大きく上昇していることもあり、それではとても収まりそうにない。国の重要配分方針を研究し、予算の増額につながるよう国と相談しながら事業を進めています」。県河川砂防局河川海岸整備課海岸整備班班長の遠藤和正氏は前を向く。

この前を向く精神こそ、県河川砂防局に受け継がれてきたものだ。静岡県の挑戦を専門家としてずっと支援してきた岡田氏は、「合言葉は、まずやってみよう、でしたよね」と記憶を呼び覚ます。担当から外れた時期はあるものの初期を知る山田氏も、「そうそう、前向きな職場でしたね。自然に可能性を追求できた環境でした」と笑顔を見せる。挑戦を楽しむ風土とも言える。

景観改善と海岸保全の両立という静岡県の挑戦は、まだまだ続く。ゆくゆくは、砂浜が想定通りに回復し、撤去し切れない消波堤はその下に潜り込み、姿を消していくはず。富士山への眺望はいっそう改善されていく見通しだ。その先には、どんな世界が広がるのか――。

モニタリングの一環として養浜盛土の現場に出向いた時に目の当たりにした光景を岡田氏が嬉しそうに紹介する。「養浜盛土には、富士山の稜線に合わせ、8度程度のなだらかな勾配を付けていたんですね。するとそこに、高校生の男女が10人ほどやって来てダンスを踊り出した。感動しましたね」。養浜盛土のデザインが、「利用」を引き出した瞬間だ。

まさに、「防護」と「環境」、そして「利用」――。海岸法が掲げる3つの目的である。静岡県の挑戦の先には、これからの海岸の在り方が示される。

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仕事の風景探訪プロジェクト ニュースレターVol.4

水, 2025-04-23 11:42

「富士山の眺望を妨げる消波堤を撤去! 海岸保全との両立を果たす静岡県の挑戦」
【予告記事】

【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ

みなさん、こんにちは。WGリーダーの岡田智秀(日本大学理工学部)です。 

今回で3事例目のご案内(予告)になりますが、これまでの記事をお楽しみいただけましたら幸いです。

さて、今回のテーマは、世界遺産富士山の構成資産となった「三保松原」における“富士山の眺望保全”と“海岸防災”という、一般的には対立しがちな両面を議論と技術によって両立させた日本初のプロジェクトになります。
その背景として、日本三大松原としても知られる「三保松原」ですが、構成資産に登録されるにあたり、ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議) より、「現在の三保松原からの富士山への眺望は美しくない」と評価され、その要因である消波堤(いわゆる波消しブロック)の撤去が勧告されたことに端を発します。しかし、ご存知のように、消波堤は高波等から背後の市街地を守る海岸防災施設。当地域において欠くことのできない存在です。

そこで、富士山への眺望保全と海岸防災を両立させる日本初の海岸構造物を開発することになりました。手掛かりとなる前例がない中で、行政と専門家らによって“まずはやってみよう”を合言葉に10年超にわたり議論と実践を重ねてきたもので、実は私もその一員として参画してきました。日本の国土を縁取る海岸でいま何が起こっているのか。その最先端の取り組みをぜひご堪能いただきたいと思います!

今回のライターは、ジャーナリズムの世界に入る原点に瀬戸大橋の橋脚の立つ島々を取材した経験があるという茂木俊輔さんです。どうぞご期待下さい!

  

【before】消波堤の景観改善が勧告された当時の様子/【after】新型海岸構造物と先端撤去後の消波堤[写真提供:静岡県]

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駅の公共性に「佇むシカケ」をプラス、風景の価値を再構築〜Agawa〜

木, 2025-04-17 09:03

仕事の風景探訪:事例2【デザインのチカラ】

事業者:(株)hase(ハセ)
所在地:山口県下関市豊北町大字阿川
取材・執筆:土木ライター 三上美絵
編集・撮影(特記以外):山田裕貴(株)Tetor(テトー)

約9割が赤字と言われる日本の地域鉄道。老朽化により取り壊される駅舎も少なくない。駅舎がなくなれば駅に立ち止まる人はいなくなり、ただ電車に乗り降りするだけの通過点になってしまう。そんな中、駅の持つ「公共の場」としてのポテンシャルを引き出すことで再生し、新たな風景を生み出したのが、JR山陰本線の阿川駅の事例だ。プロジェクトの中心人物は、山口県萩市でゲストハウスを経営する(株)hase(ハセ)の塩満直弘代表。生まれ故郷である山口に、新風を吹き込もうとする思いを聞いた。

「何もない田舎」を1軒のカフェが動かす

京都市から日本海沿岸を通って下関市に至るJR山陰本線。全長676kmに及ぶ国内最長のローカル線だ。その終盤に位置する無人駅「阿川駅」の敷地に2020年3月、カフェ「Agawa(アガワ)」がオープンした。

建物は、シンプルな白いフレームの直方体。4面ガラス張りの内部からは、眼の前に停車する1両編成の赤いディーゼル電車や、ホーム越しの田んぼがよく見える。

2023年の豪雨被害による山陰本線の運転取りやめの影響で、現在のところカフェも休業しているものの、それまでは近隣や沿線はもちろん、山陽側からわざわざ山を越えて訪れる人もいるほどの人気スポットになっていた。

「常連になってくれた地元のおじさんが『まさか阿川でクラフトビールが飲めるとは思わなかった』と話すのを聞いて、嬉しかったですね」。アガワを企画し、経営するhase(ハセ)代表の塩満直弘さんは、そう言って微笑む。この場所の出現を機に、何もなかった駅前にいくつかの店もでき、都会からUターンで地元へ戻った若者もいるという。

カフェが一つ生まれただけで、地元の人たち自身が「何もない田舎」と諦めていたこの地が、確かな胎動を始めたのだ。

ガラス張りのカフェスペース。レンタサイクルもある

経営する「萩ゲストハウスruco(ルコ)」でインタビューに応じる塩満直弘さん

ありふれたローカル駅の光景に心を奪われて

塩満さんは2013年から、萩市内で「萩ゲストハウスruco(ルコ)」を経営している。洋室1部屋、和室1部屋、男女混合ドミトリー1部屋の小さな宿だ。まち中を網目のように流れる用水のように、「ながれ(流/リュウ)まじわる(交/コウ)」から名付けたというルコには、SNSや口コミで情報を得た国内外のバックパッカーが訪れ、交流し、旅立っていく。

収支はうまく回り、経営には問題がなかった。しかし、いつしか塩満さんは心に焦燥感を抱えるようになっていた。客のほとんどは、萩を目的地にしているわけではなく、旅の途中でルコに宿泊するに過ぎない。「通過点のままでいる限りは先細りだ、と感じていました」と塩満さんは振り返る。

少しエリアを広げ、萩から1km圏内に複数の交流拠点をつくれば、旅の目的地としての魅力を底上げできるのではないか。そう考えて適地を探し始めたとき、JR山陰本線の特牛(こっとい)駅で偶然出合った光景が、塩満さんの心を奪った。「海沿いの道を走ってきて、駅に車を停めて外へ出たら、ちょうどワンマンのディーゼル車がホームに入って来て、目が釘付けになったんです。ここまで旅情をそそられる光景はめったにない、と思いました」。

萩で生まれ育った塩満さんにとって、山陰本線は子どもの頃から知っている路線だ。ありふれた海沿いのローカル線の駅に、小さな車両が来て停まり、去っていく。そのごく普通の風景の価値が、突如として意識の表層に立ち上り、そのまま深く刻まれた。

だが、自身がそうであったように、誰もがこの風景を顧みることはなかった。放置された風景が無価値化されていくのは世の常だ。「美味しいコーヒーがある」「ビールも飲めて、人と話せる」など何でもいい、もし駅に「佇む理由」があれば、人々がその価値に気づき、風景が再活性化されるのではないか。そう考えた塩満さんは、JR西日本の地域共生部に相談を持ちかけた。

駅の敷地を活用する新たなスキームを模索

地域の小企業が、独自に駅を活用する方法はあるのか。「取り壊す駅舎の跡地に見晴らしのよいカフェをつくる」という塩満さんの提案に興味を持ったJRの担当者たちが、スキームを洗い出してくれた。最も可能性がありそうなのは、JRが自治体に土地を寄付し、自治体がNPOなどに施設運営を委ねる方法で、実績もいくつかあった。ただし、それでは自治体が管理責任を負うことになり、運営の自由度がどの程度になるのかは未知数だ。

検討を重ねた結果、塩満さんの会社であるハセがJRから定期借地契約で駅の敷地を借り、カフェなどの施設を建設・運営することでGOサインが出た。こうして、取り壊し予定リストの上位に挙がっていた阿川駅を舞台にしたプロジェクトがスタート。阿川は、特牛の隣駅で、ほぼ同じ佇まいを持っていた。

旧駅舎を解体・撤去した更地に、JRが待合室を、ハセがカフェと客席のあずまやを、下関市が公衆トイレを整備することになった。駅舎とカフェなどの棟がバラバラに建つのではなく、一体感のあるデザインになるよう、全体の設計をTAKT PROJECT(タクトプロジェクト)代表の吉泉聡さんと建築家の森啓将さんに依頼。キューブ状の既製品のカーポートを三つ置いた施設が完成した。一列に並べるのではなく、少しずつ角度を振っているのは、ホームと棟同士との境界をあえて曖昧にするためだという。

阿川駅周辺は現在、豪雨災害の影響で不通となっているが、以前はJR山陰本線の赤いワンマン電車が走っていた(写真提供:(株)hase)

左から阿川駅の駅舎、カフェ、バーベキュースペース、公衆トイレが並ぶ。中央2棟が「Agawa」だ。駅舎はJR、トイレは市が整備した

阿川駅のホームからは山並みの手前に広がる水田の風景が見渡せる

「幕末の志士を輩出した城下町」だけじゃない、萩を

塩満さんがアガワで実現したかったのは、公園のように、誰もがふらりと訪れて、思い思いの時間を過ごせる快適な「場」をつくることだ。それには、公共性の高い「駅」という場所は、格好の舞台だった。さらに、そうした場を増やすことで、生まれ故郷である萩のまちに新風を吹き込みたいとも考えた。

萩は吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋など幕末の志士を生んだことで知られる長州藩の本拠地。その強烈なイメージは今も色褪せず、地域の人々にとってシビックプライドの核をなすものとなっていた。萩を訪れる旅行者も、多くが史跡巡りを目的としていた。だがその半面、まちの個性がすべて「歴史」という切り口のみに集約されてしまう感も否めない。

かつての塩満さんは、一つの価値観だけが絶対であり、それ以外は認めないような保守的なまちの気配に、閉塞感と生きづらさを感じていた。山口県内の大学に在学中、日本を飛び出し、カナダとアメリカで2年を過ごして帰国。人種も年齢も育った環境も、すべて異なる人々の住む多様なまちで過ごした経験から導き出した答えは、「萩にはもっと選択肢があっていい」という思いだった。「選択肢」とはつまり、多様な価値観を受け入れるふところの広さだ。

「史跡だけじゃない、萩には豊かな自然や美しい風景もある。それを生かせる場所をつくりたい」。東京や鎌倉で働いた後、萩へ戻った塩満さんは、海外で体験したようなさまざまな人が訪れ、交流するゲストハウスを開くつもりでいた。手始めに小さなカフェバーを居抜きで買い取り、店を拠点にして人脈を広げた。

「そんな発想は、ここでは通用しないよ」。最初はそう言っていたまちの人たちも、塩満さんの思いを聞くにつれ、次第に応援してくれるようになっていった。空き家をリノベーションし、ようやくオープンにこぎつけたのが「ルコ」だった。

「内と外、新と旧が入り交じる」という価値観に基づくこれまでにない形態の宿泊施設の登場は、萩という古い城下町に大きなインパクトを与えた。ルコの存在はSNSを通して瞬く間に広まり、地元のキーパーソンたちからも、「萩の潮目が変わった」と言われたという。

「萩ゲストハウスruco」の男女混合ドミトリー(上)と宿泊者以外も利用できるカフェラウンジ(下)(写真提供:(株)hase)

駅や公園の「場の魅力」を増す「小さなまちのkiosk(キオスク)」

店が消え、電車が減り、若者は出て行った。そんな阿川駅周辺でも、アガワの出現はまちに小さくても確かな輝きを放つ灯火となった。塩満さんは「ここ25年くらい、何もかも失くなるいっぽうだったけれど、新しいものが生まれて嬉しい」という近隣の客の声も聞いた。駅という場所の持つ可能性や波及力が話題になり、メディアの取材も受けた。

ところが、オープン間もなくコロナ禍が勃発。完全に計画が狂ってしまった。「つくるまではよくても、その後に1を10にするのが難しいのだと、つくづく思いました」と塩満さんは本音を明かす。

それでも、コロナ対応の国の補助金を活用し、アガワの近くにもう1つのカフェ「UTTAU(ウッタウ)」をオープン。店舗は、1926年(大正15年)に建てられた空き家をリノベーションした。アガワをきっかけに、阿川の住民の方が空き家の仲介などに乗り出し、連携したものだ。苦境に立たされても、塩満さんは着実に布石を打ち続けている。「民間による公共性の高い事業には、もう少し行政の支援があったら、と思います」とも話す。

アガワに付けたキャッチフレーズは「小さなまちのkiosk」。キオスクとは、公園や街頭にある売店や案内所のこと。何かをしてもいいし、何もしなくてもいい。そんな公園や駅の過ごし方に、ちょっとしたアミューズ(お楽しみ)を提供するスポットになれたら、という思いがこもったネーミングだ。萩や萩の周辺にキオスクが増えていくごとに、塩満さんの描く風景も厚みと広がりを増していく。

阿川駅の待合室。ポリカーボネートで5面を囲み、行き交う人の視線や太陽の光が柔らかく通るようにした。椅子の座面には旧駅舎の梁材を再利用している

通路には、古くからの地元の特産品である「石州瓦」の赤みを帯びたかけらが骨材に混ぜ込まれている

旧駅舎のシンボルだった大イチョウもそのまま遺された

「もっともっとやりたいことがいっぱいある」と話す塩満さん

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仕事の風景探訪プロジェクト ニュースレターVol.3

火, 2025-04-15 20:07

「駅の公共性に「佇むシカケ」をプラス、風景の価値を再構築〜Agawa〜」
【予告記事】

【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ

 みなさん、初めまして!WG幹事の山田裕貴(株式会社Tetor/株式会社風景工房)です。

 第1号事例が紹介されたところですが、今回の第2号事例は、山口県下関市にある阿川駅です。
 当事例は、萩市内で萩ゲストハウスruco(ルコ)等を経営する株式会社haseの塩満さんが、自身が考える地域の拠点づくりの1つとして立ち上げたのが、阿川駅「小さなまちのkiosk」です。全国で取り壊しが行われている無人駅のリニューアルですが、今までに見たことがない駅の新しいカタチがここにはあります。
 山口にいる知人に阿川駅の話を聞いて興奮し、その足で見に行き、感動し、こんな新しい駅を生み出した塩満さんの話を一度聞いてみたい、その一心で今回の記事が誕生しています。塩満さんが阿川駅に込めた公共性とは?思いとは?

 今回もライターは、「かわいい土木みつけ旅」でお馴染みの土木ライターの三上美絵さんです。雪降る山陰地方の中、奇跡的に晴天に恵まれた取材、どうぞご期待下さい!

阿川駅とシンボルのイチョウ、背後に続く田園風景

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