仕事の風景探訪 事例3【技術のチカラ】【デザインのチカラ】
事業者 静岡県河川砂防局、静岡県静岡土木事務所
所在地 静岡県静岡市
取材・執筆:ライター 茂木俊輔
編集担当:岡田智秀(日本大学理工学部/仕事の風景探訪プロジェクト・リーダー)
撮影(特記以外):岡田智秀(前掲)
(写真提供:静岡県)
静岡県の名勝地である三保松原近くの清水海岸から富士山を望む、おなじみの風景だ。上は2024年12月の撮影、下は2013年12月の撮影。この10年でずいぶんすっきりした。理由は、かつて水平線から頭を出していた消波堤が、ほとんど姿を消したことにある。
消波堤を撤去したのは、海岸管理者の県だ。芸術の源泉とさえ言われる霊峰富士への展望としては、今のほうが明らかに落ち着く。景観の改善策として、大成功だ。
なぜ今、景観改善なのか――。発端は、富士山の世界文化遺産登録にある。登録は、2013年6月。周辺の神社や湖沼など25の構成資産とともに登録されている。
ところが、そのわずか2カ月前には、審査にあたる国際記念物遺跡会議(イコモス)が、三保松原を25の構成資産から除外することを前提に富士山の登録を勧告していた。理由の一つが、三保松原から富士山に対する展望が審美的な観点から望ましくない、というもの。その観点から邪魔者扱いされていたのが、姿を消すことになる消波堤なのである。
結果的には逆転劇が起こり、三保松原も構成資産の一つとして認められた。しかし、審美的な観点から望ましくないという問題は残されたまま。県は三保松原が構成資産から除外されないように、イコモスの勧告を正面から受け止め、問題解消に乗り出すことを決める。
「危機感からですね。世界文化遺産には登録抹消の事例もあります。イコモスからの課題を海岸管理者として何とかしなければならないという思いでした。県河川砂防局長の山田真史氏は、同局河川企画課で海岸企画班長を務めていた当時の気持ちをこう思い返す。
景観改善に乗り出すうえで課題になったのは、海岸保全との両立である。
(写真提供:静岡県)
は長年、安倍川河口から三保松原方向に伸びる静岡海岸や清水海岸の保全に取り組んできた。これらの海岸には、安倍川から流れ出る砂礫が沿岸流で運ばれ、堆積してきた。ところが、高度経済成長期に安倍川の砂利が大量に採取されるようになると、砂礫の流出が減少し、砂浜の堆積域が狭まる一方で、侵食域が広がり始めた。1980年前後には、台風の高波による越波で背後地の道路が何度も被災するほど。背後地の防護が求められるようになる。以降、県は離岸堤や消波堤など海岸保全施設を築造する一方、海岸や河川への堆積土砂で養浜を繰り返してきた。
姿を消すことになる消波堤も、この時期に海岸保全施設として築造されたもの。ただ撤去するだけでは、それまでの取り組みに逆行してしまう。イコモスの勧告を踏まえ、景観上望ましくない消波堤を撤去する一方で、背後地の防護に向け、砂浜の回復につながる取り組みも欠かせない。この景観改善と海岸保全の両立という難題に、静岡県は挑んだのである。
県河川砂防局ではまず、学識経験者との二人三脚体制を築く。2013年8月、元文化庁長官の近藤誠一氏を座長とする三保松原白砂青松保全技術会議を設立。海岸工学や景観工学を専門とする学識経験者の協力を仰いだ。「海岸保全と景観改善の両立は海岸管理者の県だけでは乗り越えられない難題です。それに向き合うには、専門家の協力が欠かせませんからね」。県河川砂防局河川企画課課長代理の横山卓司氏は構成メンバーに込めた思いを明かす。
保全技術会議は2015年3月、最終報告書を公表。目指す姿を人工構造物に頼らない砂浜の自然回復に置いたうえで、向こう30~50年かけて砂浜が自然回復するまでの間、1号から4号までの消波堤を背の低いL型突堤に置き換えると同時に養浜を実施するという対策を打ち出した。
またL型突堤への置き換えを想定する場所は、海底勾配がきつく、波が減衰することなく押し寄せる。そのため、対策の詳細を検討するうえで利用した地形変化の予測と実際との間でズレが生じかねない。継続的なモニタリングとその結果に基づく順応的な対応の重要性も同時に説いた。
県河川砂防局では2015年度以降、ここで打ち出された対策に取り組んでいく。2015年4月には、保全技術会議の後継組織として三保松原景観改善技術フォローアップ会議を設立。県が定めるモニタリング計画を基に景観改善や海岸保全への効果と突堤本体や周辺環境への影響を定期観測し、状況の変化を踏まえながら順応的な対応を取るための体制も整えた。
最初に手を付けたのは、1号消波堤をL型突堤に置き換える工事だ。「羽衣の松」の近くで多くの観光客が訪れる地点から富士山を望むと、この消波堤が目に入る。景観上、最も問題視された消波堤であることから、L型突堤への置き換えを急いだのである。
L型突堤の横堤は9つの函体を鋼管杭で固定したもの。被覆ブロック張りの縦堤との組み合わせで、波の勢いを弱め、砂浜の侵食を食い止める一方、海中の漂砂を捉え、砂浜に堆積させる。「背後地の防護に必要な砂浜の幅は80m。消波堤を撤去しても、砂浜をその幅まで回復させられる性能の確保を目指し、砂の流れを50分の1模型で再現しながら堤体の構造を検討しました」(横山氏)。
L型突堤の設置を2019年3月に終えると、次に消波堤の撤去が待つ。
問題の一つは、どこまで撤去するか。景観改善の観点からは完全撤去がベストだが、経済性や実現性を考えると極めて難しい。こうした課題を検討するのも、フォローアップ会議の役割だ。そこでは、撤去レベルとして想定される4つの段階を、景観改善と経済性・実現性の観点から比較検討し、最適と考えられる到達目標と、より現実的な暫定目標を定めた。
もう一つ、撤去方法も問われた。「設置から数十年たっていますからね、消波ブロックはがっちりかみ合い、間には砂が入り込んでいる。そう簡単には除去できそうにない。施工会社と相談しながら、撤去方法を探っていきました」(横山氏)。最終的には、突起部にワイヤーを巻き付け、海側から起重機船で吊り上げる方法を採用。1日5~6個を除去する想定だ。
1号消波堤は結局、暫定目標レベルの高さまで撤去した。この高さに抑えれば、多くの観光客が訪れる富士山への視点場から眺めたとき、消波堤は鉛直方向の視角で1度の範囲内に収まる。「その程度の見
(写真提供:静岡県)
え方なら対象物の存在は気にならないという景観工学の知見に基づいています」。海岸景観の専門家として技術保全会議とフォローアップ会議に参画してきた日本大学理工学部教授の岡田智秀氏は目標設定の拠り所を解説する。
消波堤からL型突堤への置き換えと並行して、砂浜の回復に必要な養浜にも取り組んだ。県河川砂防局では、そこにも景観改善の視点を取り入れる。1号消波堤の背後に広がる砂浜には堆積土砂をただ盛るだけでなく、盛り土の見え方にもこだわった。多くの観光客が訪れる富士山への視点場から眺めたとき、富士山の手前で養浜盛土が塊として存在感を放つからだ。
「フォローアップ会議の開催に向け、景観に配慮した養浜盛土の検討について提案を受けた時は、『目からウロコ』でしたね。そんな発想があるのか、と。ただ視点場から富士山を眺めたとき、その手前に存在する盛り土は確かに、盛り方によって見え方が違う。勾配一つとっても、自然な印象を受ける角度があることに気付かされました」。山田氏は往時を振り返る。
養浜盛土のデザインについては、フォローアップ会議の委員で景観工学を専門とする東京大学名誉教授の篠原修氏と同じく岡田氏の協力の下、2015年9月から11月まで養浜景観勉強会を開催し、集中的に検討した。「景観に配慮した養浜盛土の基本原則」をまとめたうえで、養浜盛土の区域を中心とする300分の1模型を基に、養浜効果も踏まえながら基本形状を決めた。
ただ、形を一度整えれば終わり、というものではない。波による流出は自然の営為としてむしろ歓迎。海岸全体として見れば、養浜にもつながり得る。しかし、養浜盛土の法尻がざっくりと削られ、浜崖と呼ばれる崖状の断面が現れるようになると、景観上は好ましくない。「元の形状が崩れると、状況に応じて整形し直しです。定点観測が欠かせません」(岡田氏)。
そうした「海浜形状の変化」は、「海岸構造物の見え」とともにモニタリング項目に位置付け、主要な視点場から年3~4度、撮影した写真を通じて定点観測してきた。モニタリング計画に位置付けられたモニタリング項目は、この2つを含む全19項目。最低でも年1回は観測する。その結果は毎年、フォローアップ会議で報告し、評価を加えている。
「景観改善の面でも海岸保全の面でも、想定通りの効果を上げられています。1号消波堤の部分撤去で背後の砂浜が侵食されないか、心配していましたが、モニタリングの結果を見る限り、その恐れはありません。砂浜の幅は目標の80mを確保できています」。横山氏は胸をなで下ろす。
事の発端は景観改善だが、それ以前から注力してきた海岸保全で一定の効果を上げられたのは大きい。「砂浜の侵食は全国の問題です。どの海岸でも回復にまでは至らない中、ここでは一定の効果を上げられています。景観改善の価値も、だからこそ生きるんじゃないでしょうか。奇跡の二重奏ですよ」。県静岡土木事務所工事第2課班長の大塚一臣氏は誇らしげに思いを口にする。
県では目下、2号消波堤と置き換える離岸堤の設置に向け、準備中の段階だ。当初の計画では1号と同じL型突堤を想定していたが、台風で被災した2号消波堤の消波ブロックが海底に散乱していることが分かり、フォローアップ会議で設置位置を再検討。複数案を景観改善と海岸保全という2つの観点から比較検討した結果、2号消波堤を挟む南北の位置に横堤を設置する方針を固めた。
先行するのは2号消波堤の南。ただ計画を具体化していく過程で新たな事態が明らかになる。「2020年度の測量結果を基に堤体を設計したものの、この間、大きな台風はなく、漂砂が堆積して海底地形が変化していたんですね。計画位置では莫大な量の掘削が必要になると分かったんです」と県静岡土木事務所工事第2課総括主査の梅原裕氏。設計済みの堤体が最も効果を上げられる設置位置をフォローアップ会議で再検討し、沖合に28mずらすことになった。
担当者の頭を悩ませる課題は、相次ぐ変更だけではない。予算担当にとっては今、コスト高が最大の悩みだ。1号消波堤の置き換えであるL型突堤の設置工事費は予算額で約16億円。2号消波堤の南に設置するのは横堤だけで縦堤はないため、その分、安くなりそうだが、現実は甘くない。
「設置するのは横堤だけでも、位置を沖合にずらしたため、海底地盤まではより深くなるんです。それでも、最初は20億円くらいを想定していましたが、近年、労務費や資材価格が大きく上昇していることもあり、それではとても収まりそうにない。国の重要配分方針を研究し、予算の増額につながるよう国と相談しながら事業を進めています」。県河川砂防局河川海岸整備課海岸整備班班長の遠藤和正氏は前を向く。
この前を向く精神こそ、県河川砂防局に受け継がれてきたものだ。静岡県の挑戦を専門家としてずっと支援してきた岡田氏は、「合言葉は、まずやってみよう、でしたよね」と記憶を呼び覚ます。担当から外れた時期はあるものの初期を知る山田氏も、「そうそう、前向きな職場でしたね。自然に可能性を追求できた環境でした」と笑顔を見せる。挑戦を楽しむ風土とも言える。
景観改善と海岸保全の両立という静岡県の挑戦は、まだまだ続く。ゆくゆくは、砂浜が想定通りに回復し、撤去し切れない消波堤はその下に潜り込み、姿を消していくはず。富士山への眺望はいっそう改善されていく見通しだ。その先には、どんな世界が広がるのか――。
モニタリングの一環として養浜盛土の現場に出向いた時に目の当たりにした光景を岡田氏が嬉しそうに紹介する。「養浜盛土には、富士山の稜線に合わせ、8度程度のなだらかな勾配を付けていたんですね。するとそこに、高校生の男女が10人ほどやって来てダンスを踊り出した。感動しましたね」。養浜盛土のデザインが、「利用」を引き出した瞬間だ。
まさに、「防護」と「環境」、そして「利用」――。海岸法が掲げる3つの目的である。静岡県の挑戦の先には、これからの海岸の在り方が示される。