仕事の風景探訪:事例11(北海道支部)【自然のチカラ】【コミュニティのチカラ】
事業者:北海道稚内市
所在地:北海道稚内市宗谷村宗谷
取材・執筆:ライター 大井智子
編集担当:笠間 聡(国立研究開発法人土木研究所 寒地土木研究所/仕事の風景探訪プロジェクト・北海道支局長)
岡田智秀(日本大学/仕事の風景探訪プロジェクト・リーダー)
日本本土の最北に位置する稚内市の宗谷を訪れ、砕いたホタテの貝殻を敷き詰めたという道を歩いた。想像していたよりも柔らかく、歩き心地がよい。周囲には、宗谷丘陵の雄大な景色が広がっている。2011年に稚内市が整備した「白い道」だ。幅4mほどの道が約3kmにわたって、牧草地の中を縫うように続く。細かく砕いたホタテの貝殻を厚さ10cmほど敷き詰めてある。日が差し込むと白い貝殻が反射して、まばゆいばかりの純白な道だ。
取材時は徒歩やバイク、自動車で観光客が訪れていた(写真:岡田 智秀)
道の標高がピークに達すると、目前の眺めに思わず息をのんだ。白い道が海へと向かって飛び込んでいくようだ。ジェットコースターが頂点に達し、これから急降下していく時のシーンを思い出した。
白い道が海へと続いているように見えた(写真:大井 智子)
道はやがて、樹木群に囲まれた坂道にさしかかった。空気が澄んだ日は、大海原の向こう側に、利尻島の利尻山(別名「利尻富士」)が見えるという。
大海原が目前に広がった(写真:大井 智子)
平日にもかかわらず、何人かの観光客が白い道を訪れていた。徒歩の人は1人だけ。ほかはバイクや自動車に乗っている。みなそれぞれのスポットでしばし留まり、大自然の中の道を熱心に写真に収めていた。
白い道は、宗谷を代表する人気の観光スポットのひとつだ。そもそもなぜ道路にホタテの貝殻を敷き詰めることになったのか──稚内市役所に移動して、整備のいきさつを聞いた。
1万年前にできた地形と現代の風車を眺めて歩く道ホタテの貝殻を敷き詰めたのは「宗谷丘陵フットパス」のゴール地点付近の区間で、以前は砂利道だったという。フットパスとは、既存のまちなみや自然を楽しみながら歩くことのできる小径のことだ。英国発祥で、日本国内では2000年前後に取り組みが広がった。
整備前は砂利道だった(写真提供:宗谷シーニックバイウェイ)
宗谷岬をスタート地点とする宗谷丘陵フットパスのロングコースは全長約11km。歩くと4時間かかる。宗谷丘陵の自然を楽しむために設定されたコースで、周囲には、約1万年前に氷河期の凍結と融解を繰り返したことでできた周氷河地形が続く。コースの途中に巨大な白い風車群が出現するなど、他で見ることのない壮観な景色を体験できる。
フットパスコースから宗谷丘陵の地形を望む。写真右下は放牧中の宗谷黒牛(写真:大井 智子)
宗谷丘陵に林立する風車群。全57基あり、ブレードの先端までの高さは最大約100m(写真:岡田 智秀)
ただ、コース設定当初は利用者数が延びなかった。JR稚内駅からフットパスのスタート地点まで車で45分ほど。わざわざ足を運びたくなるような強い魅力付けが求められた。
「過去の調査結果から、稚内市を訪れる観光客は20~30代の層が少ないことがわかっていました。若い層を引き付ける、新しい観光スポットの創出が大きな課題でした」と当時の内容について、稚内市建設産業部観光交流課観光戦略グループ主事の田原秀鳳さんは話す。
実は白い道の整備に先行して、フットパスコースに隣接する牧場では粉砕したホタテの貝殻を場内の小径に撒いていた。これが参考になったという。
フットパスコースの北側2kmほどのエリアに、「元祖・白い道」の名残があった(写真:笠間 聡)
もともとフットパスコースに指定された区間の大半はアスファルト舗装されていたが、ゴール地点付近だけは砂利道だった。「砂利道の区間のうち延長1kmほどを対象に、道路の維持補修の予算を使いながら、試験施工的に砕いたホタテの貝殻を撒いたのです」。稚内市建設産業部観光交流課観光戦略グループ主査の中本祐介さんは、当時をこう語る。施工性や見映えなどを確認したうえで本格的な導入に踏み切り、延長約3kmの区間を白い道として整備した。
白い道を施工する前は砂利道だった(写真提供:稚内市)
現在の白い道のスタート地点付近。写真奥側はアスファルト舗装(写真:岡田 智秀)
白い道のゴール地点付近。下り坂が続く(写真:笠間 聡)
ホタテの貝殻は、次のような工程で処理される。
まず宗谷漁業協同組合に所属する組合員が水揚げした殻付きのホタテを加工業者に販売する。貝柱やヒモを取り除いた貝殻は各加工業者が洗浄し、粉砕した上で稚内水産物残滓処理協同組合の堆積場に運び込む。これらはしばらく山積み状態で雨風にさらし風化させて、1年後に汚染などがないかを検査した上で市内の土木業者などに販売する。
白い道のホタテ貝殻。粒形は40mm以内程度で、大きな貝殻もあった(写真:大井 智子)
白い道に撒くための貝殻は稚内市が購入し、敷設する。需要と供給のバランスは稚内市の水産商工課が調整している。稚内市建設産業部水産商工課水産振興グループ主査の大石祥治さんは、「昔はホタテの貝殻はやっかいもの扱いで、漁業関係者は処理に困っていました」と打ち明ける。
現在は、建設資材などとして活用する仕組みが構築されたことで、稚内市内ではホタテの貝殻は廃棄されることなく、すべて再利用されるようになった。ちなみに、粒度調整のない「切り込み砂利」の資材単価は1立方メートル当たり5000~6000円だが、粉砕したホタテ貝殻は50円程度。はるかに安い。
「ホタテの貝殻は海産物としての生臭さがありますが1年間、屋外に置くことで風化して匂いが抜けます。2024年度は、粉砕したホタテ貝殻の9000tすべてが建築資材などに活用されました」(大石さん)。
具体的に、白い道はどのように施工するのだろう。「ホタテの貝殻を想定した道路の仕様書は存在しないので、稚内市の砂利道の基準を参考にしています」。こう話すのは、稚内市建設産業部土木課事業推進グループ主任の福井達郎さんだ。粒形は40mm以内程度を目標とし、これを10cmほどの厚みで敷いてある。
2011年に施工した後、2015年に敷き均し作業を実施し、その後も2年に1度、貝殻の補充と敷き均し作業を続けているという。
稚内市建設産業部のみなさんに、白い道について教えてもらった(写真:岡田 智秀)
敷き均し作業では、幅員約3~4m、延長約3kmの道に、4~5cmほどの厚みでホタテの貝殻を補充する。2024年は約400㎥を補充し、材料費と施工費で660万円ほどのコストを掛けた。仮に砂利敷きで計算すると資材費は200万円ほど。砕いたホタテの貝殻の資材費は2万円なので大幅なコスト削減だ。
冬期は積雪のため、白い道は11月頃から5月上旬まで通行止め。敷き均し作業は、雪解けを待って4月末以降に実施する。
2024年4月の除雪作業の様子(写真提供:稚内市)
「新たにホタテの貝殻を補充したうえで、重機を使いながら地面を平らに均していきます。バンバン叩くと貝殻が砕けてしまうので、職人たちが技を駆使して力を加減しながら転圧していきます」(福井さん)。
2024年4月にホタテの貝殻を搬入した。雪解け水で濡れているため茶色く見えるが、乾くと純白になる(写真提供:稚内市)
重機で地面を平らに均していく。道路の右側は残雪(写真提供:稚内市)
ホタテの貝殻は白い道のほかにも、広く民間の間で活用されているという。貝殻の成分や地表を覆うことで、雑草の発生を抑制する効果もあるそうだ。「よく使われるのは、農地の土壌改良やぬかるみ対策です。見映えのために撒くのではなく、農地で使うことで土の質が良くなることや、泥の上に砂利の代わりとしてかぶせることで、ぬかるみを抑えてくれる。かつて、実証実験的に白い色が光を反射するため太陽光発電所の敷地に撒いたこともありますし、雑草対策などで庭に撒く人もいます」。大石さんのこの証言を、のちに我々取材チームは稚内市内の各所で目撃することになる。
白い道のスタート地点付近に観光拠点をつくる構想も整備当初、白い道を訪れる人は少なかったが、テレビ番組で取り上げられるなどして2020年頃から人気が高まった。「今年、インスタグラムの投稿を調べたところ『稚内市』のキーワードでヒットしたのは3.8万件、『白い道』のキーワードは1.3万件の投稿がありました。稚内に関する投稿のうち3分の1が白い道の関連で、関心の高まりを実感しました」(田原さん)。
白い道から白い風車を望む(写真:笠間 聡)
人気の観光スポットとなったことで、新たな課題も生じている。白い道の両側に広がる牧草地は、民間の敷地だ。夏はオーバーツーリズムで車が押し寄せるため、牧草地に立ち入らないよう観光用の動画でマナーを呼び掛けている。また、白い道のスタート地点とゴール地点は看板で示し、一方通行での利用を誘導しているが、ゴール地点側から入る車もあるという。道幅が狭いのですれ違いするのが難しい。
これらの対策として、市はスタート地点やゴール地点を示す看板を目立つものにするなど工夫している。車からの乗り換えを促すため、数年前からJR稚内駅や宗谷岬でのレンタサイクルの貸し出しも始めている。
国道238号のバス停近くに大きな案内看板があった(写真:大井 智子)
「自動車やバイクでの利用が増えるのはありがたいことではありますが、できればフットパスの理念に戻り、徒歩や自転車での利用を増やしたい。ただ、白い道のスタート地点には駐車場やバス停はないし、宗谷岬の展望台などを起点として白い道を歩こうとすると少なくとも11kmの長さになってしまうことが課題です」。中本さんはこう話し、稚内市が2024年3月に取りまとめた「宗谷岬周辺魅力創出基本構想」の概要を説明してくれた。
「白い道のスタート地点近くに駐車場や休憩所、トイレを備えた観光拠点を創出し、白い道沿いに小規模なビュースポットをつくる構想です」。このほか、白い道のスタート地点まで観光客をシャトルバスで送り、そこから歩いてもらうアイデアや、白い道に並行して新たなフットパスを整備して白い道をコンパクトに周遊できるルートをつくることで、周遊性を高める構想もある。最終的には自動車から、徒歩や自転車、シャトルバスなどへの転換を進めることが狙いだ。「具体的な検討はこれから始まるところなので、実現はまだ先になると思います」とのことだ。
ニュージーランドの石灰の道を参考にそもそも白い道のアイデアは、どのように生まれたのか。田原さんに白い道の誕生秘話を知るキーマンを紹介してもらい、さっそく取材に向かった。
杉川さん(中央)と中場さん(左)に白い道が誕生したいきさつを聞いた(写真:岡田 智秀)
「元祖・白い道」は、現在の白い道の2kmほど北側に位置する社団法人宗谷畜産開発公社(現在は解散)の敷地内に、1999年につくられていた。
「当時、宗谷畜産開発公社では、子どもたちを対象に環境学習を実践する『エコビレッジ』を運営していました。場長の氏本長一さんが景観をよくするために、漁業組合が捨てていたホタテの貝殻を粉砕して小径に撒いたのが最初です」。
こう話すのは、宗谷シーニックバイウェイルート運営代表者会議(以下、宗谷シーニックバイウェイ)事務局長の杉川毅さんだ。本業は稚内印刷株式会社の代表取締役会長だが、稚内観光協会常務理事のほか、観光地域づくり法人 きた・北海道DMOの副代表理事も務めている。杉川さんと一緒に取材を受けてくれたのは、宗谷シーニックバイウェイの代表を務める中場直見さん。宗谷バス株式会社代表取締役を務めており、稚内観光協会会長で、観光地域づくり法人 きた・北海道DMOの代表理事でもある。
宗谷畜産開発公社のエコビレッジの小径につくられていた「元祖・白い道」(写真提供:宗谷シーニックバイウェイ)
「もともとは、氏本さんがニュージーランドの牧場にある石灰を撒いた白い道を目にしたことがきっかけです。『白い道、緑の牧場、青い空のコントラストが最高』と感じた氏本さんは、宗谷で道に撒くことのできる白いものが何かないか、探したそうです」(杉川さん)。行き着いたのがホタテの貝殻だった。これを砕いて牧場内の小径に撒き、杉川さんに「見に来てよ」と声を掛けた。
「真っ白な小径を見て、これはいいなあと思いました。ちょうどその頃、フットパスの構想が持ちあがっていました。コースに想定されていたゴール地点付近の下り坂は、海や利尻富士への眺望が開けている。そこに撒いたらいいんじゃないかなと思ったのです」と当時を振り返る。
だが当時、ホタテの貝殻を本格的に建設資材として活用する仕組みは確立されていなかった。廃棄物処理法の壁もあった。「諦めかけていたころ、稚内市役所の職員の方ががんばって仕組みを構築してくれたのです。稚内市が稚内観光協会、稚内商工会議所、宗谷シーニックバイウェイなどの関係機関と連携して、2011年に白い道が完成しました」(杉川さん)。
取材時は自動車やバイクが白い道を訪れていた(写真:大井 智子)
だが、そこからもトントン拍子にはいかなかった。
「当初はほとんど人が来ませんでした」と杉川さんは苦笑する。自身のブログに「白い道」の写真を載せたりすると、少しずつ問い合わせが来るようになり、最初にバイクのライダーたちが訪れるようになった。あるライダーは、「北の最果てに行ったのに、沖縄みたいな景色に出会った」とコメントを添えてユーチューブに写真をアップしてくれた。
その後、バイク専門誌に白い道が掲載され、企業がCMのロケ地に使うなどして、徐々に存在が知られていった。コロナ禍を経て、2021年8月13日の交通量調査では、1日で475台の自動車と、277台の二輪車が白い道を訪れた。今では夏の週末に、写真を撮るため停車する車で渋滞が発生することもあるという。
車を停める時は路肩に寄せる(写真:大井 智子)
ビュースポットの近辺に、牧草地への乗り入れ部分が交差点状に広がっていた。観光客が車の停車帯やすれ違いに利用しているようだった。
撮影時は雨上がりで、水を含んだわだち部分の色が変わっていた(写真:大井 智子)
人気の観光スポットとなったことで、稚内市役所で聞いたように、杉川さんと中場さんもオーバーツーリズムへの危機感を抱いていた。2人とも、「道幅を広げても車の台数が増えるだけ」と考えている。できれば、白い道のスタート地点に駐車場を設けるなどして車の乗り入れを制限したり、交通料を徴収したりする仕組みを導入したいが、そのためにはゲートを設け徴収係員を常駐させるといった体制づくりが必要になるため、一朝一夕にはいかない。
2022年には宗谷シーニックバイウェイが、白い道での電動キックバイクの乗車体験とガイド付きフットパス体験の実証実験を実施した。「徒歩や自転車、キックバイクなどを活用してもらって、白い道の豊かな自然環境を保ち、ダイナミックな風景を眺めながら誰もが楽しめる場所を、将来にわたって維持していきたいのです」(中場さん)。
車を気にしながら徒歩で散策する人もいた(写真:大井 智子)
杉川さんは、宗谷シーニックバイウェイの活動で、スイスのツェルマットの「スイスモビリティ」を視察した時のことを教えてくれた。そこでは、電車やバスなどの公共交通機関とサイクリングやカヌーなどを組み合わせて、大自然を満喫しながら移動を楽しむ仕組みが実践されていた。
帰国後に「宗谷版スイスモビリティ」として企画したのが利尻島でのサイクルツーリズム。バスと自転車を組み合わせた観光だ。これらの経験をベースに、旅行会社と連携しながらバスと自転車を活用して白い道を楽しむための体制づくりに奔走した。
宗谷バスの代表取締役でもある中場さんは、「稚内観光協会と宗谷バスが連携し、2022年からJR稚内駅~稚内空港~宗谷岬をつなぐ『アクティブバス』の運行を始めています」と話す。運行期間は6~9月。日に2往復し、路線バスを補完するように走る。1便目は、バスに自転車を積載できる。2023年の自転車の積載台数は12~3台。今年度からはラッピング仕様での運行も準備しており、バスを利用したサイクルツーリズムの観光需要の掘り起こしに意欲的に挑んでいる。
宗谷バスの中場さんに「アクティブバス」を見せてもらった(写真:笠間 聡)
「アクティブバス」の座席数は16で、バス後方に自転車を12台積載できる(写真:笠間 聡)
「アクティブバス」をラッピングしたサイクルバス(写真提供:稚内観光協会)
自転車貸し出しの利便性も向上している。稚内観光協会のレンタサイクルは、宗谷岬の「BASE SOYA」とJR稚内駅にあり、クロスバイクや電動クロスバイクを貸し出す。例えば、バスで宗谷岬に行って、「BASE SOYA」で自転車を借り、宗谷丘陵の眺めを楽しみながらフットパスコースを走って白い道へとアクセスできる。自転車は宗谷岬と稚内駅のどちらで返却してもよい。
宗谷岬展望台の「BASE SOYA」にレンタサイクルを設置した(写真:大井 智子)
「道路の景観が観光につながる」という杉川さんの考えは、約20年間続けてきた宗谷シーニックバイウェイの活動で培われてきたものだ。
シーニックバイウェイとは、「景観」と「わき道」を合わせた造語。景観や自然などの要素を取り入れたルートを活用し、観光や地域活性化につなげていこうとする米国発祥の取り組みだ。道路そのものが観光資源という考え方で、日本では2005年に国土交通省北海道開発局が主導して「シーニックバイウェイ北海道」がスタート。現在は15の指定ルート、2つの候補ルートがあり、中でも特に景観に優れた区間を「秀逸な道」として指定する取り組みが2021年に始まり、道内全15区間が指定されている。稚内市内は、宗谷シーニックバイウェイの指定ルートであり、「秀峰・利尻山を望む道」と、白い道を含む「大地の息吹を感じる宗谷周氷河の道」の2つの「秀逸な道」の指定区間がある。
秀逸な道「秀峰・利尻山を望む道」(国道238号)。道路の路肩拡幅に併せて、もともと海側にあった電柱を陸側に移動し、海への眺望を確保した(写真:笠間 聡)
宗谷シーニックバイウェイの活動範囲は稚内市のほか、礼文町、利尻町、利尻富士町、浜頓別町と広域にまたがる。これまでの活動によって人とのつながりが生まれ、様々な情報を得ることで、フットパスや白い道づくりの活性化に尽力できたという。
「道路の景観を向上させていく取り組みを通し、『景観が人を呼び』、『景観に価値がある』ことを知りました」。こう話す杉川さんは、宗谷丘陵が北海道遺産に認定される前の2000年頃から、月に1度、壮大な景色を見るために丘陵に通ったという。「フットパスコースを設定して、宗谷丘陵を観光資源として活用しよう」と周囲の観光関係者に熱く語ったところ、周りの反応は「そんなところ、歩く人はいないでしょう」と芳しくなかった。「毎日眺めて見慣れた景色なので、地元の人はなかなかダイヤの原石に気づかないのかもしれないと思いました」。
レンタサイクルの導入も、当初、周囲は乗り気ではなかったが、いまは自転車ブームが到来した。「地域活性化につながる新しいものは何かないかと、いつも貪欲に探しています。これまでやったことのない試みは周囲に敬遠されがちですが、やり続けていけばどこかで花が開くと思っています」(杉川さん)。いま温めている構想は、白い道の夜間利用だ。道の両側に間接照明のフットライトを設置すれば、満点の星と、遠くにまたたく稚内市内の夜景を楽しむ場になるはずと考えている。
日常生活に溶け込む砕いたホタテの貝殻たち関係者への取材を終えた我々は、白い道の夕景を確認するため、本プロジェクトの北海道支局長を務める笠間聡さんの運転するレンタカーで、寄り道をしつつ、再び現地に向かった。海岸沿いを走っていると運転席で、「あっ!」と笠間さんが声を上げた。「白いのがあった」。窓から見ると、海産物を干すと思われる海辺のやぐらの足元に、ホタテの貝殻がキラキラ光っている。さっそく車を停めて、写真に収めた。
海岸沿いにホタテの貝殻が撒かれていた(写真:大井 智子)
しばらく車が進んでいくと、今度はプロジェクト・リーダーの岡田智秀さんが、「あそこにも白いのが!」と叫ぶ。
すごい。
道路から、ホタテの貝殻が積まれている集積所のようなところが見えた。
ホタテ貝殻が積まれていた(写真:大井 智子)
そこから我々の目は、「白いモノ」センサーが起動したように次々とまちなかのホタテ貝殻を発見し、写真に収めていった。なかには「白い!」と誰かが叫んで車を停めてよく見たら、白い小石でがっかりしたこともあった。稚内市役所で大石さんが教えてくれた通り、ホタテの貝殻は日常の便利グッズとして使われており、地域の風景に溶け込んでいるようだ。
こちらは、ぬかるみ対策だろうか(写真:大井 智子)
照り返し効果への期待からか太陽光発電所の敷地に撒かれていた(写真:大井 智子)
交番では看板の下にホタテの貝殻が(写真:大井 智子)
現地に着くと、夕日が落ちる前に最後のミッションを実行した。稚内観光協会は、砕いたホタテの貝殻を詰めた「白い道ボトル」を2023年に商品開発。観光客が貝殻を白い道に撒いたり、記念に持ち帰ったりするために、ボトルを1本500円で販売する。これを岡田さんと笠間さんは2本ずつ、私は1本購入していた。
気に入った景観の場所を見つけて、細かな貝殻をさらさらと撒いた。2024年は49本売れたというので、「今年の販売分のうち、10分の1はすでに貢献したかもしれないね」と喜び合った。
白い道ボトルの貝殻を撒いた。この日の午前中は激しく雨が降り、夕方に晴れた(写真:大井 智子)
白い道ボトルは、現地の様子をプリントしたすてきなデザインだ。半分撒いて、半分は今も自宅の机上にある(写真:大井 智子)
昼過ぎまで激しい雨が降っていたせいか、夕方以降に見かけたのは観光客を乗せたタクシー1台だけ。我々は好きなところで何度も車を停めて撮影し、ゆっくり白い道を散策しながら、日没を待った。
雨上がりで訪れる人は少なかった(写真:大井 智子)
この日の東京は30度超えの真夏日だった。宗谷は風が強く、体感温度は10度を下回っている感じだ。あまりの寒風に涙を流しながら、海へと沈む夕日を眺めていた。
白い道が夕日に光り、海へと太陽が沈んでいった(写真:大井 智子)
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG
【支部名】北海道支部
【事例キーワード】①技術のチカラ、②デザインのチカラ、③自然のチカラ、④コミュニティのチカラ、⑤記憶のチカラ
北海道からこんにちは。このたび北海道支局長という役をいただきました寒地土木研究所の笠間と申します。
今回の「仕事の風景探訪プロジェクト」、北海道からご紹介するのは、長さ3km、牧草地を貫き、最後は海へと至る1本道です(写真1、写真2)。
単純に見た目どおりに「白い道」と呼ばれていますが、ホタテの貝殻を砕いて敷き詰めたものです。一般的な土木工事の感覚から言うと、敷き詰めたというよりも、撒いた、くらいがちょうどいいかもしれません。
北方領土を除く日本の最北端、宗谷岬のほど近くにあります。宗谷岬から、「宗谷丘陵フットパス」に指定された舗装路を8kmほど歩いたところです。
この地の果てとも言える土地に、
・目に美しい(まぶしいけど)
・適度に柔らかく、歩いて心地よい(まぶしいけど)
・宗谷丘陵の牧草地、宗谷湾・宗谷海峡・日本海、天気がよければ利尻島利尻山までを一望するロケーション
・地元の特産品、宗谷のホタテ貝のアピール
・その代償として大量に発生する産業廃棄物、ホタテの貝殻の有効活用
・道路を走って、展望台から眺めて終わり、だった宗谷岬、宗谷丘陵の観光における新たな可能性
といった新たな魅力をつくりだすことになった(小さな)事業です。
一方で、理想の道となるにはまだまだ解決しなければならない課題も抱えているのが事実です。宗谷岬から8km歩く(全行程だと10km以上)と書きましたが、多くの方は車やバイクで訪れます。
今回の記事本編に登場される方々が、今も少しずつ取り組みを進めているところです。
ぜひお読みいただき、今後の取り組みや発展にも、ご興味やささやかな応援をいただけるとと思う次第です。
★「いつか行きたい場所」リストに保存お願いします↓
https://maps.app.goo.gl/sbBKHAnEAQYJnpVSA
注:上記GoogleMapsの掲載写真には、違う場所の写真(風車の道)が混じっています。
写真1 「白い道」フィーチャーで作られた稚内市グッズの数々(右上除く)
写真2 緑の丘陵の中を地形にあわせて伸びていく「白い道」。曲がり角の先にあるのは...??
仕事の風景探訪 事例10(関東支部)【デザインのチカラ】【自然のチカラ】
事業者:新潟県新潟市
所在地:新潟県新潟市北区
取材・執筆・撮影(特記以外):ライター 茂木俊輔
編集担当:福井恒明(法政大学/仕事の風景探訪プロジェクト・関東支局長)
新潟市北区と新潟県新発田市にまたがる福島潟。「潟」とは一般に、砂州によって外海から分離されてできた湖を指す。広さは、越後平野最大の262ha。東京ドーム56個分にあたる。国の天然記念物である渡り鳥のオオヒシクイやスイレン科の希少植物であるオニバスなどの生息地として知られる。
大雨が降ると、潟につながる13本もの河川や水路から水が流れ込む。それを日本海に逃がす放水路が完成する2003年3月までは、一定の限度を超えると、潟につながる河川を氾濫させてきたばかりか、潟の周囲にも水をあふれ出させてきた。豪雨災害の常襲地帯だったのである。
1998年8月の豪雨災害による被災状況。手前は、福島潟に流れ込む折居川流域の集落。奥には福島潟が広がる(写真提供:新潟県)
河川管理者である新潟県は2003年1月、阿賀野川水系新井郷川圏域河川整備計画を策定。30年に1回程度発生する規模の洪水を安全に流下させることを前提に、福島潟の貯水容量を増やし、遊水地としての機能を高める、河川改修事業を打ち出した。
メニューの一つが、潟外への遊水を防止する湖岸堤の整備・かさ上げだ。計画高水位T.P.+1.7mに堤防余裕高1mを見込み、高さはT.P.+2.7m。のり勾配は3割だ。
ところが当時の設計では、湖岸堤が施設利用を分断する区域が生じる。新潟市が福島潟の一角を中心に整備し、指定管理者が管理・運営する「水の公園福島潟」である。自然と文化の情報発信施設「水の駅『ビュー福島潟』」は堤内に残る一方、「自然学習園」、休憩交流施設「潟来亭」、キャンプ場は、堤外に出る。施設利用を分断する湖岸堤の延長は485mに及んだ。
湖岸堤のかさ上げ前。左手の水辺付近が「自然学習園」、右手のヨシ葺き家屋が「潟来亭」、さらに右手がキャンプ場。
「水の駅『ビュー福島潟』」は、左手の道路手前。当初の設計では、この道路沿いに湖岸堤をかさ上げする計画だった(写真提供:新潟県)
分断の問題が浮上したのは、約10年後。湖岸堤の整備・かさ上げを本格化させていく中、県は関係機関や地元町内会の意見・要望を聞く場や設計案を地元住民に対して説明する場を設ける。その過程で、当初案が抱える利用動線上・景観上の問題が指摘されたのである。
「公園利用者は、湖岸堤を乗り越えるため、階段を上り下りしなければなりません。車いす利用者は、スロープへの迂回を強いられます。また堤内の歩道から福島潟を望むと、目の前に屹立した堤防が立ち現れるため、圧迫感や抵抗感を受ける恐れもありました」
当時の事情を語るのは、県新潟地域振興局地域整備部治水課課長の近藤宏樹氏である。「これらの問題を解決しようと、①誰もが堤内外をスムーズに行き来できるようにする②堤防からの圧迫感や抵抗感を和らげる――という方針の下、設計見直しに乗り出しました」。
設計見直しで実現した地域と治水の「共生の風景」複数案を比較検討のうえ採用したのは、築堤法線を堤外側に大きく食い込ませたうえで、横断形状にも変更を加える設計案だ。当初の設計で3割と定めていた横断勾配は堤内外ともに緩やかなものに改め、例えば堤内側は現況地形へのすり付け勾配を下限値で2%に定めた。この2%という勾配は、「建築家のためのランドスケープ設計資料集」(鹿島出版会)を参考に、平坦性を持ちながらも排水性に支障の生じない数値として取り入れたものだ。
湖岸堤のかさ上げ後。正面に見える「潟来亭」の奥を左右に走る通路が、堤防の天端にあたる。
かさ上げ前後の違いは分からないほど利用動線や景観への影響は小さい(写真提供:新潟県)
2015年3月、設計案を見直した区間で湖岸堤のかさ上げ工事が完成。公園利用者は誰もがストレスなく園内を楽しめる。地域と治水の「共生の風景」が広がる。
緩やかな傾斜を持つ湖岸堤の上では、各種のイベントを開催する。左手、踊りの観客が集まっている側が堤内にあたる(写真提供:新潟県)
それが生まれた背景には、3つの「変化」がある。
まず河川法の1997年改正だ。河川管理の目的に「河川環境の整備と保全」が新たに加わり、河川整備計画を定めるときには関係住民の意見を反映させるために必要な措置を講じなければならなくなった。それから10年以上。「湖岸堤の整備・かさ上げを本格化させる段階では、関係住民の意見に耳を傾ける、という方針を徹底していました」と近藤氏は説く。
次に「ビュー福島潟」の1997年開設である。この施設は、新潟市と合併する前の旧豊栄市が整備計画を描いていた「福島潟自然生態園(現水の公園福島潟)」の目玉の一つ。青木淳建築計画事務所(当時、現AS、東京都港区)が建築設計を担当し、1999年日本建築学会賞を受賞した。
湖岸堤越しに堤内を望む。右の建物が、日本建築学会賞を受賞した「水の駅『ビュー福島潟』」。
左手の建物は、無料で利用可能な休憩交流施設「潟来亭」
「意匠面で優れた施設が、目の前に立つ。しかも、利用者も年間10万人程度と多い。県としては景観や利用動線に配慮せざるを得なかったと思います」。そう振り返るのは、「福島潟自然生態園」の整備計画策定に向け旧豊栄市が設置した委員会で長を務めていた新潟大学名誉教授の大熊孝氏。「ビュー福島潟」では、通算5期目の名誉館長に就く。
最後は、湿地としての福島潟への評価の高まりだ。例えば環境省は2001年12月、「生物多様性の観点から重要度の高い湿地」の一つとして公表した。さらに2010年9月には、ラムサール条約湿地の登録を推進する狙いで条約湿地としての国際基準を満たすと認められる「潜在候補地」の一つとして選定したことを公表した。ラムサール条約とは、「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」と訳される取り決め。湿地の保全とともに、その恵みを将来にわたって維持しながらうまく利用していく「ワイズユース(賢明な利用)」という概念を打ち出す。
福島潟に飛来するオオヒシクイ(左)とコハクチョウ。
「水の駅『ビュー福島潟』」副館長兼レンジャーの佐藤安男氏によれば、オオヒシクイの国内最大の越冬地が福島潟という。
潟内には、ヨシで覆われ、中を見通せない島が、複数散在する。
「それらが、警戒心の強いオオヒシクイに塒(ねぐら)としての安心感を抱かせているのではないか、と考えられます」(佐藤氏)
(写真提供:水の駅「ビュー福島潟」)
1990年代後半から2000年代前半にかけて、河川行政にはパラダイムシフトが起こり、福島潟の価値はいっそう高まった。これらの「変化」が、地域の声に耳を傾ける、という県の方針をもたらしたのではないか――。近藤氏や大熊氏は、そう読み解く。
左から、「ビュー福島潟」の佐藤氏、新潟大学名誉教授の大熊氏、新潟県の近藤氏
豪雨時、湖岸堤で潟内に貯めた水は、放水路を通じて日本海に逃がす。
この放水路は、1966年7月と翌67年8月に起きた豪雨災害をきっかけに、建設省(当時)と県が1968年5月に策定した恒久的治水対策に位置付けた。「ところが、1998年8月豪雨で福島潟に流れ込む河川の流域が被害を受けた。そこで、整備を加速化させた経緯があります」(近藤氏)。
福島潟放水路。左手方向が福島潟、右手方向が日本海。
左から右にかけて3本並ぶ橋梁の奥には、潟内の水位を保つために設置するゴム引布製起伏堰が見える
放水路としての造りが、ふるっている。日本海に水を逃がすときは、ポンプではなく、自然流下に頼る。水位を制御するのは、途中2カ所に設置されたゴム引布製起伏堰だ。
平時はゴム堰を2カ所とも起こし、海水の流入を防ぐ一方、放水路周辺の砂丘地の地下水位を維持するため、放水路内の水位を潟内の水位より高いT.P.+0.6~+0.8mに保つ。潟内の水位は、周辺の水田の水はけを良くするため、日本海との間をつなぐ新井郷川の下流にある排水機場で日本海の水位より低いT.P.-0.4m以下に抑えている。豪雨時は、潟内に雨水が集まり、水位が日本海の水位であるT.P.+0.6mを超える。そこで、ゴム堰を2カ所とも倒伏させ、潟内と日本海をつなぐのである。
この放水路が2003年3月に完成を迎えると、県は河川改修事業に乗り出す。湖岸堤の整備・かさ上げのほか、干拓された箇所の一部掘削による潟の再生や潟内の水を放水路に導くための水門の設置などに取り組んできた。事業は終盤に差し掛かり、目下、水門の設置を進める。
左手の福島潟と正面の新井郷川の交点で建設工事の進む水門。
豪雨時は、新井郷川流域の安全を確保するため、水門を閉め、右手の放水路に水を導く
景観上の問題が生じないように、県は水門の設置にも細心の注意を払う。「3本の門柱の間に設置するゲートの色や門柱の上に置くゲート操作台のデザインを、専門家の協力を得ながら検討してきました」と近藤氏は明かす。「土木構造物のデザインは、地域になじむものでないと。河川改修事業の中で景観面に配慮した湖岸堤のかさ上げは、土木学会デザイン賞2016で奨励賞を受賞しました。水門についても、ヘタなものはできないはずですよ」と大熊氏はくぎを刺す。
近藤氏によれば、放水路の完成以降、福島潟周辺での大きな浸水被害は見られないという。これまでの取り組みで、一定の治水安全度は確保された。
河川行政の立場で近藤氏が心掛けてきたのは、地域の声に耳を傾けることという。「地域住民をはじめとする関係者とコミュニケーションを取ることが、河川行政を進めていくうえで何よりも役立ちます。互いに納得できる落しどころを探ることこそ、私たちの仕事です」。
地域の声に耳を傾けることは、現場を知ることにつながる。それこそ、近藤氏が矜持として胸に秘めてきた点である。「国と向き合うときも、技術者としての誇りを持って、毅然とした態度で臨みなさい――。先輩からはそう教えられてきました。現場を知ることは強みになる。そう確信しています」。
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG
【支部名】関東支部
【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
みなさんこんにちは。関東支局長の福井恒明(法政大学)です。
今回の「仕事の風景探訪プロジェクト」では、新潟県の越後平野に数多く存在する「潟」のなかでも最大の面積を誇る福島潟の湖岸堤の仕事をご紹介します。
米どころとして知られる越後平野ですが、かつては日本海沿いに連なる砂丘の背後に湿地帯が広がっていました。明治期の地図を見ると潟と呼ばれる無数の水面をみることができます。潟の多くは干拓され、あるいは排水ポンプの整備により農地や市街地になりましたが、いくつかは新潟平野を彩る美しい水の風景として残っています。
今回ご紹介する福島潟は、現在残っている潟の中でもっとも面積が大きいものです。福島潟は国によって干拓が進められましたが、潟の水辺と豊かな動植物の生態系が残され、「水の公園福島潟」として市民の憩いの場となっています。その一方で、福島潟は豪雨の際には周囲の水を引き受ける遊水池の機能を有しています。新潟県は貯水容量を高めるために湖岸堤の整備・かさ上げを計画しました。その際、水の公園の風景を壊さないために細心の配慮を行いました。
災害対策と風景保存の両立をどのように行ったのか、茂木俊輔さんに取材していただきました。
どうぞご期待ください!
写真1 越後平野最大の福島潟
仕事の風景探訪 事例9(関西支部)【デザインのチカラ】【自然のチカラ】
事業者:京都府京都市
所在地:京都府京都市下京区四条堀川町他
取材・執筆:土木ライター 三上美絵
編集担当・撮影(特記以外):山口敬太(京都大学/仕事の風景探訪プロジェクト・関西支局長)
雨水を一時的に貯留し、ゆっくり地中に浸透させる構造を持つ植栽空間、雨庭。
近年多発しているゲリラ豪雨などで雨水が一気に下水へ流れ込み、道路などが氾濫するのを防ぐグリーンインフラとして、全国で注目が集まっている。
京都市は市民の意見を基に緑地整備を進める「市民公募型緑化推進事業」の一環として、四条堀川交差点南東の植樹帯を雨庭として整備した。2018年4月に完成したこの庭が、現在市内14カ所にまで増えた雨庭の嚆矢だ。
「雨水の貯留」という機能を持たせながら、「京都らしい日本庭園」の趣を見事に表現したのは、山田造園社長の山田隆之さん。山田さんとともに、当時を振り返ってみよう。
およそ9.5トンもの水を貯められる枯山水「雨を貯める機能を満足させながら、伝統的な京都の庭園らしい景色をつくる。デザインにあたって最も意識したのは、その両立でした」。山田造園の山田社長は、そう振り返る。
京都市街地の中心部を南北に貫く堀川通と、東西に横切る四条通の交わる四条堀川交差点。オフィスビルや商業ビルの立ち並ぶ京都きっての繁華街だ。京都市が整備する雨庭の第一号は、その交差点の南東側に位置する。
横断歩道につながる歩道を挟んで両側に雨庭が広がり、信号待ちの人たちにいっときの潤いを提供。かつては車が多く殺風景だった交差点が、今では都会のオアシスになっている。
信号待ちの人々が思い思いの位置で雨庭を楽しむ。画面中央の既存樹を残して作庭した(写真:山田造園)
株式会社山田造園代表取締役の山田隆之さん(写真:三上美絵)
雨庭では、貯水機能は主に「州浜(すはま)」と池をイメージした砂利敷きが担う。州浜とは、砂利を敷き詰めた面で浜辺の波打ち際を表現する伝統的な枯山水の作庭手法だ。「通常は地面に直接、砂利を敷くだけですが、ここでは水を貯めるために35cm掘り下げ、栗石を敷き詰めた上に、砂利を敷いています」と山田さんは説明する。
雨水は栗石の隙間に浸透し、ゆっくりと地中に吸収される仕組みだ。表面の砂利はチャートで、粒径約4cmと約15cmの二種類を使い、小さい方で水を、大きい方で波打ち際の岸辺を表現した。
驚いたのは、その貯水能力だ。歩道の両側に広がる雨庭全体で、およそ9.5tもの水を貯めるポテンシャルがあるという。
歩道の一角に、雨庭の構造を説明する現地の案内板がある(写真:三上美絵)
2017年当時、京都市はさまざまな緑地のあり方を模索するなかで、雨庭に注目していた。ただ、雨庭はまだ全国的にも実施例がほとんどなかった。このため四条堀川の雨庭は、やってみてうまくいけば横展開しようというパイロットケース的な意味合いも担っていた。
入札の結果、施工者に決定したのが、京都学園大学太秦キャンパスの雨庭づくりで実績のあった山田造園だ。このとき監修を務め、雨庭の提唱者でもある京都大学名誉教授の森本幸裕さんのアドバイスももらうことになった。
設計は、当初、交差点に面した約220m2の敷地を「緑地として整備する」ということだけが決まっていた。「与条件は既存樹木と、かつて流れていた堀川の遺構である橋の親柱を残すこと。あとはほぼ白紙の状態から、森本先生と一緒にデザインしていきました」と山田さんは話す。
戦後の下水道整備により暗渠となった堀川に、かつて架けられていた綾小路橋の親柱。
雨庭整備のため、敷地の端へ移動した
設計にあたっては、さまざまな制約があった。まず、敷地の歩道側は石垣を巡らせて盛り土がしてあり、地盤が一段高くなっていた。その部分は、地盤の高さを変えられない。というのは、街路樹として植えられたクスの大木があり、別な位置へ移植したり、現在生育している地盤の高さを変えたりすると枯れてしまう懸念があったからだ。
また、道路境界の縁石や、既存の会所枡(下水道管の合流部に設けられた枡)もいじれない。縁石の一部を穴あきブロックに替えて取水口とし、車道に降る雨水を取り入れることから、庭側のレベル設定も難しい。
山田さんは「歩道側の地盤の高い部分を『山の景』、車道側の低い部分を『水の景』とし、両者の境界に水が溜まる州浜と枯れ池を設定することでうまく収めました」と話す。山の景を表現するために、よく京都の山に生えているイロハモミジを築山のてっぺんに植えた。
植栽計画図。車道側を水の景、歩道側を山の景とし、間に州浜を設置。築山には山の植物を植えた
横断面図。右側の地盤が一段高くなっている
縁石ブロックを取り替えて取水口を設けた。右側の車道に降った雨水を左側の雨庭内へ取り込む
こだわったのは、庭づくりで重要な役割を果たす石の選択だ。京都の銘石「加茂七石(かもなないし)」の一つである貴船石(きぶねいし)や、近郊で産出し名刹の庭によく使われる山石(チャート)を採用。州浜の奥には石橋を配置するなど、京都らしさをふんだんに盛り込んだ。「私たちにとっては、京都の庭園を広く紹介できる場としても貴重です。提示された予算は決して潤沢ではありませんでしたが、採算を度外視して在庫の石など、いい材料を使いました」。山田さんの言葉からは、雨庭に掛ける市や造園業界の期待が伺える。
歩道からよく見える位置に、京都の銘石「貴船石」を配置した(写真:三上美絵)
現地で雨庭を眺めると、複雑な条件のもとで針の穴を通すようにしてつくり上げたとは思えない自然な景観が広がっている。「高低差があるほうが、平らなところより庭づくりには向いている。最初に現場を見たときも、制約さえクリアできれば面白いものができるな、という自信はありました。思ったとおり、自慢の庭になりました」と山田さんは胸を張る。
もちろん、視点場も意識した。交差点側を庭の正面とし、縦横斜めから見えるようにしたことで、視覚的に庭に広がりが出る。角度によっては、歩道両側の二つの庭がつながって一つに見える効果も企図したという。
左側の築山から手前の州浜へ向けてなだらかに低くなっている。
築山はもともとの地盤の高さを利用した。州浜と築山の境界には大きめの砂利を敷いて波打ち際を表現
歩道の両側に広がる雨庭。車窓からは角度によって二つの庭が一つに見える
周知のとおり、京都には有名な庭園が集中している。代表的な枯山水である龍安寺の石庭、東山連山を背景とした南禅寺の借景庭園、建築との調和が美しい桂離宮の池泉回遊式庭園…、数え上げれば切りがない。ただ、こうした名園の多くは寺院などの施設に併設される庭であり、誰もがいつでも自由に拝観できるわけではない。その点、四条堀川の雨庭は繁華街の交差点にあり、四季折々の移り変わりを間近に味わえるのが魅力だ。
一般に、街路樹では単一の樹種が線状に植えられていることが多い。しかし、ここでは何十種類もの植物が植えられ、四季ごとに花が咲き、春には新緑、秋には紅葉が楽しめる。近くに暮らす人や通勤通学で通る人はもちろん、インバウンドの観光客からも好評を博しているという。
「多彩な植栽を選択することができたのは、雨庭の貯水機能があったからです」と山田さんは話す。
現地は幹線道路2路線の交差点で、排気ガスや排熱、日射にさらされるため、植物にとっては過酷な生育環境だ。通常ならば、最も乾燥に強い樹種を選ばざるを得ず、選択肢は狭まる。しかし、ここでは州浜の貯水効果を見越して、「乾燥にはそれほど強くないが花が美しい木」を取り入れることができた。ただし、日本庭園の代表的な素材であるものの、極端に乾燥に弱い「苔」を維持するのは難しいと判断し、代わりに芝生を植えたという。
若葉や紅葉、季節の花々が四季折々に道行く人たちの眼を楽しませる
今回の雨庭づくりは、「道路」に降った雨水を「公園」に取り入れる、すなわち雨水が行政区分を越境するという意味でも、発注者の京都市にとって前例のない取り組みだった。道路に降った雨水は通常、側溝の排水口から下水管へと排出される。道路の管理部局と雨庭整備を行う公園部局で管理が跨ることから、雨水の処理の仕方をめぐり、山田さんたちは双方と入念に協議を重ねた。
施工面では「人通りの多い交差点」という条件による難しさもあった。庭の規模は小さくとも、クレーンで大きな石を据えつけるといった大掛かりな作業もあり、朝のラッシュ時は工事をしないなど、第三者災害には細心の注意を払った。一方で、人目に付きやすい場所の特性を生かし、仮囲いに雨庭のしくみや工事の進捗を紹介するパネルを設置してPRしたという。
雨庭が完成してしばらく、山田さんは大雨が降るたびに、いそいそと四条堀川へやってきた。京都学園大学の雨庭では、雨上がりには表面にうっすらと水を湛えた州浜の景色が楽しめたからだ。しかし、四条堀川の雨庭は想像以上に雨水の吸収がよく、全量が見事に地下へと吸い込まれてしまう。貯水機能が存分に発揮されている証だが、山田さんには少し物足りないようだ。「庭の景色としては、水のない枯山水と池泉庭園の両方を楽しめると申し分ないのですが」と苦笑する。
四条堀川の事例よりも前に手がけた京都学園大学太秦キャンパスの雨庭。
大雨の後には州浜の表面に水が見えることもある(写真:山田造園)
竣工から7年が経った今、以前からあった巨木と、新たに植えた低木や芝生、銘石、石橋などの要素がしっくりとなじみ、風景として定着した感がある。その一方で、メンテナンスには課題も残る。
行政による雨庭の管理は街路樹と同様の扱いで、年に数回、定期的に樹木を剪定する。「種類によって花の咲く時期が異なるので、切っていいタイミングと避けたいタイミングがあります。1年を通してそれぞれの花を咲かせてから切るような管理メニューが理想なのですが」と山田さんは残念がる。
「庭というのは、つくって終わりではありません。維持することは、つくることと同じぐらい大切。鎌倉時代などにつくられた古い庭が今も美しいのは、きちんと手入れを続けてきたからです。ここも、それぐらいの価値があると思うんです」。最先端の技術と伝統的な庭づくりが融合した記念すべき第一号の庭。将来へ向けた雨庭づくりのお手本ともなるべき庭の管理には、もう少し予算を投じてもいいのではないか、というのが山田さんの思いだ。
「雨庭をたくさんつくって雨水を地球へ返すことは、自然の水循環に則った素晴らしい試み。それで洪水を防げるなら、美しい緑が街の潤いにもなり一石二鳥ではないでしょうか」。山田さんがそう話すように、雨庭は貯水機能さえあればいいというのでは、あまりにも寂しい。日本が何百年も育んできた庭園文化を受け継ぎ、環境に配慮した雨庭という新しい形で世界へ発信する。その役割は、ここ京都の街角に生まれた雨庭にこそふさわしい。
2018年の竣工当時の様子。
この写真と比べると、7年間でモミジなどの低木が大きく成長したのが分かる(写真:山田造園)
新着・お知らせ2024会長PJ-ひろがる仕事の風景プロジェクト仕事の風景探訪WG
【支部名】関西支部
【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
関西支局長を務めております京都大学大学院准教授の山口敬太です。
今回は京都府京都市、四条堀川通の交差点の歩道上につくられた「雨庭」を取り上げました。
雨庭とは、地上に降った雨水を下水道に直接流すのではなく、一時的に貯留させ、地中に浸透させる機能を持った植栽空間です。雨水流出抑制のほか、水質浄化や暑熱緩和、さらには景観形成に寄与するなど、多面的な効果を果たしています。
京都市内では令和6年度までに14箇所整備され、他都市でも整備が進み始めていますが、そのパイロットプロジェクトとなったのが四条堀川交差点南東角の雨庭です。京都の造園技術を活用して作られた雨庭で、整備から7年が経過していますが、樹木が育って、京都らしさを感じさせる風情と暮らしの潤いを生み出しています。
今回、その施工に関わられた山田造園の山田隆之さんに、当時の設計・施工などのお話を伺いました。山田さんは、数多くの優れたお庭を手がけられておられ、現代の名庭師です(https://yamada-zoen.com/works/)。
そんな山田さんが、京都のまちなかの道路空間に、どのような景色をつくられようとしたのか?
土木ライターの三上美絵さんにご執筆いただきましたので、是非お読みいただければ幸いです。
2020年(施工後2年半ほど)、雨の日に訪れたときの様子です(写真:山口敬太)
仕事の風景探訪 事例8(中部支部)【デザインのチカラ】【コミュニティのチカラ】【土地の記憶のチカラ】
事業者 岐阜県多治見市
所在地 岐阜県多治見市
取材・執筆・撮影:ライター 茂木俊輔
編集担当:大野暁彦(名古屋市立大学/仕事の風景探訪プロジェクト・中部支局長)
せせらぎの音と豊かな緑に包まれながら、お気に入りの場所で過ごす――。駅の目の前なのに、そんな贅沢な時間を過ごせる公共空間がある。JR多治見駅の北口に広がる虎渓用水広場だ。駅北口一帯の土地区画整理事業で用地を確保し、多治見市が2016年7月に供用を開始した。
虎渓用水広場のテラス。大人数で集える大テーブルやカウンターテーブルを設える
広さは50mプール3面相当。総延長約200mにわたって巡る水路には、約2㎞離れた土岐川から引き込む水が自然流下し、所々にテラスや小広場が配置される。テラスにはテーブルや椅子が備え付けられ、リモートワークも可能。無料Wi-Fiの環境がうれしい。
人口10万人規模の地方都市では、駅前と言えば交通広場が目の前にどんと居座り、主役は自動車交通。駅とまちとの間をつなぐ結節点というのが一般的だ。近くに駅ビルや繁華街でもない限り、人の姿は途切れがち。電車の発着に併せ現れては消え、虚ろな空間が残る。
ところがここは、ひと味違う。主役はあくまで歩行者だ。
平日午前は、サラリーマンや若者、それに親子連れが立ち寄り、近くの幼稚園や保育園からは数十人の園児がまとまって遊びに訪れる。駅北口は古くからの商店街で賑わってきた駅南口とは反対方向にあたるが、歩行者の姿が途絶えることはない。
駅北口にこうした広場を整備する構想は、30年ほど前に生まれた。
きっかけは、タネ地の出現だ。国鉄分割・民営化に伴い、駅北口に広がる機関区・操車場の利用が廃止された。市はこれを引き金に区画整理事業を通じた駅北口のまちづくりに乗り出し、1994年度には機関区・操車場の跡地を国鉄清算事業団から取得したのである。
土地区画整理事業前のJR多治見駅北口。右手に北口までの跨線橋が見える(写真提供:多治見市)
区画整理事業の計画図では、駅前の一等地を市は「多目的広場」と位置付けた。「旧国鉄跡地を貴重な公有地としてまちなかに確保し、他のまちにはない独自の広場をつくり上げよう、と計画していました」。区画整理事業の後半、2012年4月から事業完了の2020年3月まで事業担当部門に在籍していた現建設水道部上下水道工務課課長代理の守屋努氏は経緯を説明する。
2000年8月になると、市は多目的広場ワークショップを主催し、区画整理事業区域内の地権者をはじめ、まちづくりに関心を持つ市民らとともに、広場の整備計画を検討し始める。並行して新たな風景づくり計画策定委員会も立ち上げ、駅北口の魅力づくりに向けた検討も進めた。
多目的広場にまず期待されたのは、人が集まるにぎわいだ。
当時、多目的広場の整備計画づくりに携わっていた現都市計画部都市政策課課長代理の小木曽明芳氏によれば、広場内にはイベントを開催できる空間と客席代わりにもなる階段を整備する案を描いていたという。通過点になりがちな駅前を人が滞在する空間にしたいというワークショップ参加者の思いが、計画案ににじみ出る。
多治見市の守屋努氏(右)と小木曽明芳氏
多目的広場の構成要素には「水辺」も見込んでいた。市が2001年3月にまとめた「新たな風景づくり計画書」では、整備方針の一つとして「魅力的な水辺景観がまちをめぐる風景をつくる」を打ち出す。具体的には、水路の整備だ。「広場内にカスケードという段差のある水路を巡らせ、水の躍動を見せる、という想定でした」(小木曽氏)。
この水路に巡らせようとしていたのが、土岐川の水。虎渓用水として100年以上前から利用されてきた河川の水を再び活用した、独自の風景づくりを計画していた。
多治見市内を東西に横断する土岐川。虎渓用水には、この上流から水を引き込む
虎渓用水は農業用水として1902年に開削された。駅北口一帯に位置していた農村集落は江戸時代から水不足に悩まされ、近くを流れる土岐川から水を引き入れようとした歴史がある。その後、土岐川との間を隔てる虎渓山にトンネルを掘り、そこを介して水を引き入れ、地域一帯に用水として巡らせる工事を実施する。しかし、トンネル工事は困難を極め、集落は財産を売り払い、農家は私財を投げ売った、と伝えられる。用水の開削は地元にとって悲願の達成だった。
地域一帯の市街化が進むと、民家の軒先を流れる防火用水として利用されるようになり、そのうち雨水排水路に機能を転じる。それに伴い、暗渠化が進行。住宅地の間を走る生活道路の幅員に車両通行上の余裕を持たせる役割を果たすようになる。
舗装の異なる箇所の下に虎渓用水の水路が通る。暗渠化で道路の幅が広がった
その後、虎渓用水の再生を訴える声が、地元商工会議所からも上がる。「副会頭を務めていた伊藤良一氏が会頭賛同の下、商工会議所内で委員会を立ち上げ、多治見駅北地区の整備方針を独自にまとめたのです」と守屋氏はいきさつを語る。用水の再生には、開削に動いた先人の精神を次世代に伝える狙いを込めていた。
ワークショップで想定していた多目的広場とは何が異なるのか――。
守屋氏によれば、多治見独自の顔をつくり、多くの人が集えるようにしたい、というまちづくりへの思いは共通だが、水景への重きの置き方に違いが見られたという。「ワークショップでは水景を持ちつつも広場の活用に重きを置くのに対し、商工会議所では虎渓用水の再生に重きを置いていたように思われます」。
とはいえ、双方とも地元の声には変わらない。市は互いの案のすり合わせに乗り出す。その仕掛けが、「多治見駅北地区における虎渓用水を活用した水と緑の委員会」の立ち上げだ。2010年2月、伊藤氏を会長に発足。そこから15回にもわたって多目的広場の整備計画を煮詰めていく。
「水と緑の委員会」の様子(写真提供:多治見市)
最終的なコンセプトは、①日常でもイベント時でもいろいろな使い方ができる、いつでも活気ある場所②水と緑が重なり合い、その中に気持ちの良い居場所が織り込まれている場所③多治見ブランドとして他のどのまちにもない、ここだけの駅前風景――という3つ。これらに基づく整備計画案を、小学校区単位の地区懇談会、市広報誌での意見募集、市民500人アンケート、パブリックコメントなどの手続きで寄せられた声も踏まえ、修正を重ねた。
論点の一つは、広場の面積と水辺の面積のバランスである。最終的には、イベント空間としての広場を求める声を受け、広場の面積を当初の整備計画案より広げる形で落ち着いた。「『夏にはビアガーデンを開催したい』というように、ここでやりたいことが具体的に提案されていました。それができないようでは多目的広場を整備する意義が損なわれることから、みなさんがやりたいことがやれるだけの広さを確保することを優先しました」と守屋氏は経緯を明かす。
委員会の運営補助業務は玉野総合コンサルタント(名古屋市、現日本工営都市空間)が担当していた。そこに、オンサイト計画設計事務所(東京都港区)が事業協力者として加わる。多目的広場の設計段階では、かたや設計者として、かたや設計協力で参画することになる2社だ。
「駅北口にはどんな水辺空間がふさわしいのか、事例を委員会で熱心に視察に回り、『星のや軽井沢』のランドスケープ設計を担当したオンサイト計画設計事務所の名が挙がりました。そこで、委員会の運営段階から参画してもらったのです」(守屋氏)。
広場と水辺のバランス確保では、設計協力者の果たした役割は大きい。
「委員会ではさまざまな意見が出ます。しかしオンサイト計画設計事務所では、どんな意見も否定せず、ひとまず提案に取り込もうとする。その作業を丁寧に繰り返し、合意を得ていくのです。その取り組み姿勢には感心しました」。守屋氏はデザインの力に感嘆する。
JR多治見駅側から虎渓用水広場を見下ろす。正面に見えるのが、イベント広場
論点は、もう一つ。多目的広場内での用水再生をどう実現するかという点である。当初の計画は、既設水路の途中にある分岐点から広場まで新たに水路を整備し、分岐点からそこに自然流下方式で水を流す、というもの。維持管理コストを抑える狙いから、動力は利用しない。
ところが、地形がそれを許さない。守屋氏は解説する。
「分岐点と広場との間は水頭差6m程度。途中の起伏を乗り越える必要もある。自然流下方式で水を流すには、広場への流入地点を地面から3m下げざるを得ません。そこからさらに広場内を巡らせようとすると、その形状は極端な逆ピラミッド型になってしまうのです」。
そこで採用を決めたのが、水路の代わりに導水管を用いる方式だ。分岐点と広場の間を導水管で結び、分岐点側からの水圧で水を送り込む。これなら、広場への流入地点は地面から1m下げるだけ。広場内をさらに水路で巡らせるにも、深く掘り下げずに済む。
導水管は公道下に埋設するが、既設水路と並行する区間は暗渠化された水路内に敷設する。分岐点から広場まで導水管の延長は約1000m。委員会から条件付けられた毎秒200ℓの流水量を、この方式で確保することに成功した。広場内を巡った水は、再び導水管を通して既設の水路内に戻り、最終的には土岐川支流の大原川に流れ込む。
虎渓用水広場内の水路は、いくつかの段差が設けられ、水が自然流下していく造り
土岐川から取水するにあたっては、水利権の見直しを求められた。
水利権とは、特定の目的のために、その達成に必要な限度で、河川の流水を排他的・継続的に使用する権利。1896年制定の旧河川法で許可制を取り入れたが、土岐川からの取水はそれ以前から実態があったため、虎渓用水には慣行水利権が認められていた。
ところが、①権利の内容が不明確②見直しの機会がない③取水量報告の義務がない――という理由から、国は慣行水利権を1964年制定の新河川法で定める許可水利権に移行させていた。虎渓用水の再生論議をきっかけに、市は河川法を所管する国土交通省との間で新たな用水の活用方法の協議を始める。
その結果、農業用水としての目的を終えた虎渓用水は、環境用水として再活用が認められることになる。対象施設は、虎渓用水広場だけではない。市が同時期に整備するビオトープや散水用井戸ポンプも含まれる。「環境用水としての水利使用であるため、水辺の環境づくりや暑さ対策という観点から、この2つの施設も加えることにしたのです」と小木曽氏は理由を明かす。
散水用井戸ポンプは、虎渓用水の水路が巡る一帯に立地する小学校前に整備された
虎渓用水の再生に向けた課題をこうして乗り越えながら、2015年7月、多目的広場は整備工事を迎える。市は設計監理業務を設計協力者でもあるオンサイト計画設計事務所に委託。水と緑の委員会の運営補助業務や設計協力業務での実績を評価し、随意契約で発注した。
利用者自ら居場所を生み出せるように椅子は可動式整備工事と並行して、市は2015年9月、多目的広場の設置・管理条例を制定。指定管理者による管理を定めた。「夏のビアガーデンなど市民が開催を望むイベントを開催しやすいように広場利用の自由度を上げるには、地方自治法上の『公の施設』と位置付け、運用については設置・管理条例で定めるのが一番、と判断した結果です」と守屋氏は経緯を説明する。
虎渓用水広場には集客力の高い各種のイベントでにぎわいが生み出される(写真提供:多治見市)
細かな縛りをなくそうという心意気は、可動式の椅子にも表れる。
広場内に備え付けの椅子はどれも、ただ置いてあるだけ。屋外に設置する椅子を盗難防止のワイヤーで地面にくくりつけている例も見られるが、ここでは解放されている。
「椅子を自由に動かせれば、例えば日陰など自分にとって気持ちの良い場所に居場所を好きに確保できます」と守屋氏。多目的広場のコンセプトに登場する言葉でもある「気持ちの良い居場所」は利用者自らが生み出すものでもあるという。
守屋氏はさらに言葉を続ける。「盗難防止に固定するというのが、行政の常識です。夜間だけ片づけるという案も出ましたが、手間がかかる。そこで思い切って、指定管理者が毎日、椅子の数を管理する程度にとどめたのです。市長にこの話を上げると、『椅子を盗むような市民は多治見にはいない!』と全面的にバックアップしてくれました」。
供用開始から9年。虎渓用水広場という通称が定着し、いまでは当初の期待通り、人が集まるにぎわいを生み出す空間として親しまれる。
2025年5月を例に取れば、市内で無肥料・無農薬栽培に取り組む生産者がオーガニック専門のマルシェを開催したり、市出身の女性ラッパーらが音楽・ダンスショーを開催したりするなど、にぎわいづくりに貢献する。指定管理者でもある一般社団法人多治見市観光協会(たじみDMO)も野外本屋を開設。駅北口に多治見独自の顔をつくる。
駅北口には、2015年1月に供用を開始した市の北庁舎に続き、本庁舎も移転してくる予定。供用開始は2029年上半期を目指す。その暁には、虎渓用水広場を新庁舎の前庭と位置付け、より一層のにぎわいを創出する計画だ。地方都市の庁舎は一般に、駅から離れた市街地に立地するが、その常識を覆す異例のまちづくりが控える。多治見独自の顔をつくる仕事は、まだ続く。
JR多治見駅北口には市庁舎が移転してくる予定。写真右奥には虎渓用水広場が広がる
【支部名】中部支部
【事例キーワード】
①技術のチカラ、 ②デザインのチカラ、 ③自然のチカラ、 ④コミュニティのチカラ、 ⑤記憶のチカラ
名古屋市立大学大学院の大野暁彦です。今回は中部からのご案内です。
今やさまざまに創意工夫された駅前空間が登場していますが、今回ご紹介する駅前空間には、用水路が引き込まれています。駅を降りて自由通路から降りると水音が感じられ、日本の中でも有数の酷暑のまちとは思えない玄関口です。四角い広場の中の水は池のような広い水面があるのではなく、細い水路がぐるぐるとまるで渦を巻いているかのように流れており、その間を園路で抜けていくような構成になっています。広い静かな水面の代わりに、流れのある水路が巡り、水音があちこちから聞こえます。水路沿いに展開する小さなテラスは適度な距離感で配置され、いつもたくさんの人が各々で気ままに過ごし長居している姿があります。このように地域の方々に親しまれている様子もまた魅力的です。全体的に掘り込んだサンクン形式の広場ということもあり、駅前でありながらみどりと水路に囲われた落ち着いて過ごせる空間が広がっています。高低差は階段やスロープだけでなく家具としても取り込まれ、1つのテラスの中でも多様な居場所が見られます。
このように大きなランドフォームの設定から水の動き、そして家具といったデザインに至るまで緻密に設計されています。私自身は大学の講義で1年生に必ず見学にいくように促し、私自身も学生とともに何度も訪れ、これでもかというぐらいあちこちを測ったり観察して学んできた場でもあります。今回はそんな綿密に設計された空間の完成に至るまでのプロセスからみていきます。
今回のライターさんは、茂木俊輔さんです。今回の取材で、このプロジェクトの背景にあるさまざまなドラマが浮かび上がってきました。ご期待いただければと思います。
写真1 段差を活かし床の高さやボリュームをコントロールすることで多様な居場所が生まれている(2016年)
写真2 周辺より掘り下げられ緑の中にどっぷり浸かれる(2025年)