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日本の科学技術の集大成であり続ける鉄道技術、とりわけ「システムインテグレーションの所産」である新幹線に関する技術・運行ノウハウを、広く世界に伝え、鉄道技術で世界に貢献したい、と日々考えている技術者が、台湾高速鉄道建設プロジェクト受注競争に参画した際に、ネガティブキャンペーンや欧州仕様のインフラで新幹線を走らせる等の様々な困難に立ち向かった取り組み。
東京オリンピックが開催された昭和39(1964)年。高度経済成長の真っただ中である日本で、東京-大阪間(約560km)を4時間で結ぶ「夢の超特急」東海道新幹線が開業しました。この新幹線開業は日本の近代史に残る一大事業ですが、同時に日本の科学技術を結集した「システムインテグレーションの所産」「Made in Japanの結晶」「Cool Japanの原点」でもあります。
今回の「行動する技術者たち」は、日本の科学技術の集大成であり続ける鉄道技術を、広く世界に伝え、鉄道技術で世界に貢献したい、と日々考えている技術者、JR東海 顧問の田中宏昌氏をご紹介します。
田中氏は学生時代に土木工学を学び、日本国有鉄道(現:JRグループ)に入社しました。入社当初より海外での技術協力に関心が高かった田中氏は、会社に無断で青年海外協力隊に応募して上司からお目玉を食らった、とのことでしたが、後に希望が叶い、昭和59(1984)年より国連ESCAP運輸通信観光部鉄道課長としてバンコクに赴任しました。ESCAP時代、田中氏は様々な域内鉄道プロジェクトの創出・実施に携わりましたが、その内、特に印象に残っている案件が二つあるそうです。その一つは「都市交通における鉄道の役割」を啓発するプロジェクトで、アジアの凄まじい交通渋滞を目にするたびに構想を練っていたそうです。田中氏はドイツ、フランス、オーストリア、ソビエト(当時)、日本といった都市鉄道大国にドナー及びホストをお願いし、域内国からの代表者を集めてセミナーを開催し、先進国の実状を見せ、セミナーごとにレポートをまとめ、関係国に配布し、都市鉄道の役割を啓発しました。もう一つは「域内鉄道のための土木構造物検査保守標準」の作成と教育です。途上国のほとんどは旧宗主国が造った鉄道の老朽化に頭を痛め、助けを求めていました。そこで代表的な鉄道を選んで調査し、域内国のための土木構造物検査保守標準を作成し、各国から代表者を集めてセミナーを開催し、タイ国鉄の現場で実地訓練を行いました。6年近い国連ESCAP時代はとても充実したものだった、と田中氏は語ります。
田中氏がESCAP在任当時、日本では、すでに新幹線が東海道・山陽・東北・上越と国内ネットワークを形成し、ビジネスや観光など、国のかたちを大きく変えていった時期を迎えていました。
こうした日本の新幹線建設による国土の発展を見て、東アジア諸国では高速鉄道の建設が計画されました。韓国では平成2(1990)年、高速鉄道建設の概要が公表され、日本(商社・車輛メーカーが中心となった日本連合)やドイツ、フランスが応札に名乗りをあげました。ですが、韓国政府はフランスの受注を決定しました。韓国とほぼ同時期に台湾でも高速鉄道計画が進められていましたが、示方書作成は欧州主導で進められており、日本は台湾でもプロジェクト参画に遅れをとっていました。
しかも、台湾政府がこの計画をBOT方式で進めることに決めた時、事業権契約を独仏連合(と組んだ台湾高速鉄路連盟)にさらわれ、新幹線の命運はまたもや尽きたと思われました。ところが、1998年6月ドイツICEが脱線転覆、死者100名以上という事故を起こし、これを知った台湾政府は機電システムを安全面からもう一度見直すことになりました。世にいう「敗者復活戦」です。
今度こそ負けられない日本連合は新幹線を運営するJRに技術支援を求めました。JRは新幹線担当副社長(当時)の田中氏をリーダーとして日本連合を技術支援することに決めました。4年間の新幹線本部長経験や国連での海外経験があり、適任者と判断されたようです。
長年、鉄道技術者として日本の鉄道技術の進化、更には海外技術協力に従事してきた田中氏にとって、海外を走る「新幹線」はかなわぬ夢でした。そんな折の台湾高速鉄道建設プロジェクト受注競争への参画依頼です。
「海外で日本の鉄道技術の集大成である
新幹線を走らせたい」
田中氏の技術協力に対する熱意が再燃し始めました。
日本の企業連合は独仏連合に比べて売り込みに遅れをとっており、さらに追い打ちをかけるように、独仏連合は「ネガティブキャンペーン」を行い、日本の提案よりも自分たちの提案が優れていることを大々的にPRし始めました。
これに対し日本連合は、台湾でセミナーを開催したり、台湾高速鉄道(以下、台湾高鉄)や政府関係者、台湾マスコミを日本に招待し新幹線を体験してもらうなどで対抗しました。田中氏はこれらの機会を捉え、高温多湿・多雨の台湾の気候や高低差のある地形、駅間が短い路線計画には機関車方式より動力分散方式(電車型)の新幹線が最適であることをプレゼンし、理解を求めました。
また、1999年9月、台湾中部を震源とするM7.6の地震が起こった時は、台湾政府と協議し、台北で地震セミナーを開催、耐震設計や復旧方法などを二日間にわたり講義しました。その結果、日本の新幹線技術は正確な運行ダイヤ、高い信頼性や安全性に加え、地震対策面でも優れていることが理解され、台湾高速鉄道プロジェクトの機電システムを、晴れて日本が受注することになりました。
受注契約後も更なる苦労がありました。というのは、台湾企業5社が設立した台湾高速鉄道には台湾人の鉄道技術者がおらず、外国人コンサルタントが技術的事項を決定する主要ポストに就いていましたが、彼らも高速鉄道の経験がありませんでした。そのため、新幹線がシステムインテグレーションの所産であることが理解されず、プロジェクトは土木、軌道、機電システムがばらばらに発注され、土木工事は既に始まっていました。また、日本が機電システムを受注したにもかかわらず、技術的主要事項は欧州仕様のまま、継続協議という形で契約締結をしていました。
技術仕様変更協議は「安全」問題に重点を置いて行われました。新幹線が走る軌道を日本方式に変更する協議は、レールをUIC(欧州)規格からJIS規格に変更し、枠型スラブ軌道を採用するなど成果がありました。しかし、高番数のドイツ方式分岐器を18番(新幹線用分岐器)に変更する提案は拒否されました。
一方、技術仕様の詳細が決まらないため、規程もマニュアルも作れず、従って教科書も教育用シミュレーターも作成できません。2005年10月開業予定というのに、要員養成計画を動かすことができない状況に危機感を抱いた田中氏らは別契約(JRは無償)で台湾高鉄社員のために新幹線教育を開始しました。新幹線教育は2003年7月から約1年半かけ、14グループ、170名に対し、台湾と日本で行われました。台湾と同じDNAを持つ新幹線の教育は後で大変役に立ちました。全クラスの最初と最後の90分講義を受け持った田中氏は、今でも台湾高鉄社員から先生と呼ばれています。
平成19(2007)年1月、当初予定より約1年3か月遅れて開業した台湾新幹線は、700系新幹線車両をベースとし、台北-高雄間(約350km)を最高速度300km/h、最短で約1時間30分で結ぶことを実現しました。
日本の新幹線が営業を開始して約40年後に、海外で初めて営業運転された新幹線。現在の東海道新幹線は、車両や運行システム等に新たな技術を導入することで、当初設計速度250km/hを超える270km/hでの営業運転を行っています。
「鉄道技術は時代とともに進化する。
日本が育んできた新幹線技術を
海外技術協力という形で実現できたことは
鉄道エンジニア冥利に尽きる」
新幹線は今年、開業50年を迎えますが「システムインテグレーションの所産」として、ますます進化し続けていくことでしょう。
そして、田中氏が取り組んできた鉄道エンジニアによる海外協力は、高い技術力や技術者魂が若い世代に引き継がれ、世界の子どもたちに明るい、希望の持てる未来を拓き続けていくことを切望したいと思います。
渡邉 一成
Kazunari WATANABE
行動する技術者たち小委員会・委員
(福山市立大学 都市経営学部)
注))ESCAPとは「アジア太平洋経済社会委員会(Economic and Social Commission for Asia and the Pacific)」の略語。国連経済社会理事会の5つの地域委員会の一つであり、経済・社会開発のための協力機関として、広範囲な分野で地域協力プロジェクトを遂行。アジア開発銀行(ADB)やメコン委員会の設立、アジア・ハイウェイ(AH)構想の推進等多くの成果を収めている。
(外務省HPより http://www.mofa-irc.go.jp/link/kikan_escap.html)
参考文献
添付 | サイズ |
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【Web版第35回】日本の鉄道技術が世界に夢と希望を育む~気候風土が類似した台湾で走るCool Japan「新幹線」~ | 556.75 KB |
(c)Japan Society of Civil Engineers