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中村良夫先生が主体となり、基町環境護岸整備を表情豊かな景観づくりに視点を置いた、人々が憩える河岸緑地として実現。
“水の都”広島を流れる太田川。市内中心部の基町地区に、殺伐とした都市空間と融和した河川空間が、市民の憩いの場として親しまれています。この河川空間の整備が始まったのは1979(昭和54)年。まだ日本の河川整備が治水重視で景観への配慮がほとんど行われていない時代のことでした。
後に評価が高まり、2003(平成15)年度に土木学会デザイン賞の特別賞を受賞したこの取組みは、河川整備の新たな方向性を導き出したと言えるもので、東京工業大学名誉教授の中村良夫氏の熱い思いがこめられています。
当時の広島市では、河川を中心とした都市景観づくりをしたいと考えていました。しかし太田川の派川は、国と県の管理となっていて、市では直接どうすることもできませんでした。
その意をくんだ建設省太田川工事事務所の山本所長(当時)は、景観デザイン研究の第一人者であった中村良夫氏に調査依頼を行うことにしました。
中村氏がその依頼を受けたのは、東京工業大学に赴任して間もない1976(昭和51)年4 月のことでした。景観の研究を始めて約10 年が経過していましたが、それまでの研究は調査や理論を中心としたもので、「実際にデザインをやりたい」という思いが高まってきていたときでした。
太田川基町護岸の取組み
太田川工事事務所から受け取った手紙は、広島市内の景観に関する市民意識調査、分析を依頼するものであり、そこにはデザインの実施について明確には何も書いてありませんでした。しかし、「これは、明らかにデザインに結びつく!」と感じた中村氏は、引き受けることにしました。
はじめの2年間は、都市のイメージに関しての意識調査を行いました。この調査は当時大学院生だった北村眞一氏(現・山梨大学教授)らの実際の研究・教育活動の舞台となり、デザインのできる人材の育成にもつながっていきました。
調査の結果、「河川がとても重要な意味をもっている」こと、「原爆ドームの上下流にかけてが特にポイントである」ことが明らかになりました。中村氏は、河川空間を「デザインをすべき」と山本所長に伝えました。ちょうどその頃、基町地区に残っていた、不法占拠住宅が焼失する事故が起こったことで、早期に整備を行う必要もあり、山本所長は高水敷をデザインすることを決断しました。そして設計を全面的に中村氏に委託することになりました。
中村氏が主張した基町地区のデザインは、当時の河川行政の常識を打ち破るものでした。治水上は撤去することが望ましいといわれていた水制工の保存や、高水敷にあったシンボルとなるポプラの保存などです。
中村氏は、「事務所長にはよく理解をしてもらったのだけど、現場に近づくにつれて意見が合わなかった。特に現場の総責任者であった工務課長とは、かなりやり合った」と振り返ります。「しかし、工務課長も最終的には納得してくれたし、ときにはその場で布団籠を設置する判断を下すなど、議論をしていてこちらも非常に勉強になった」。
ランドスケープは図面では表しきれないため、デザイナーとして信念を貫き通すために工事中も毎週のように現場に通い続けました。その情熱と実務を一番知っている工務課長との両者のプロとしての妥協のない議論が、現在のすばらしい河川空間をつくり上げたといえるのではないでしょうか。
賑わいを見せるオープンカフェ(京橋川)
現在の太田川には、中村氏が保存を主張したポプラの木があり、市民に親しまれています。2004(平成16)年台風18号の強風で一度は根元から倒れてしまいましたが、市民の熱意により手入れがされ、現地に戻されました。市民の活動はその後もいっそう盛り上がり、次世代の樹木の育成などの活動が行われています。
さらに河川空間の開放もいち早く行われ、派川の京橋川沿川ではオープンカフェが賑わいを見せています。
中村氏は、河川景観ではなく都市景観のなかの河川としての整備の必要性を強く訴えています。「当時は、行政間の調整もうまくできずに残念に思うことも多かったが、市民活動もありだいぶ一体的な整備ができるようになってきた」と語ります。「今後はもっと行政の縦割りを外した総合的なプロジェクトに取り組むことを考えれば、土木はもっとやることがある」と指摘しています。
太田川のデザインは、その美しさに一見とらわれがちですが、デザインの背景にある「市民意識の十分な把握」、「内部空間のみでなく周辺の歴史、景観などとの一体化されたコンセプト」の実現という、こだわりの詰まったものだと痛感しました。
景観は長い時間をかけ育てるものです。20年くらい経たないとわからない。中央公園の付近のポプラのところには、当時、高木が4~5本くらい残っていてデザインの観点からポプラとニセアカシアの木を残すことを主張したのですが、現在はイベントが行われるなど、当時のその思い以上に市民に親しまれていて、市民が育てるものだと感じました。
土木技術者は技術者個人として、どう思うかをマニフェストとしてはっきり出していく時代ではないか。大学の人間は社会が気付いていない問題に気付くことが大事ではないか。
当時、中村先生は一貫して現場主義で、事務所からの依頼が終わった後もよく現場に足を運んでいました。研究室に施工図を持ち帰えられ、中村先生のスケッチを学生みんなで、よく徹夜で描き直しをした記憶があります。中村先生は、大変紳士な方ですが、芯が強く、妥協をしない方です。当時から、「分析だけでなく、物をつくりたい」という強い意識をお持ちでした。
行動する技術者たち取材班
鈴木学 SUZUKI Manabu 国土技術政策総合研究所建設経済研究室主任研究官
参考文献
1)松浦茂樹:投稿 話の広場 河川環境デザインの出発点、土木学会誌、Vol.84、No12.1999
2)中村良夫:風景を創る~環境美学への道、NHK出版、2004.6
土木学会誌vol.92 no.11 November 2007
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第15回 デザインを生んだ。市民が育てた -都市の河川の景観を、太田川河川整備-(PDF) | 533.32 KB |
(c)Japan Society of Civil Engineers