御勅使川(みだいがわ)は富士川水系釜無川の右支川であり,山梨県南アルプス市を流れる流域面積75k㎡,平均勾配1/13.8(7.2%)の急流荒廃河川である。本流域はフォッサマグナ西縁の糸魚川-静岡構造線に近接し,破砕帯が発達しているため,多数の崩壊から生産・流出した土砂によりわが国屈指の広大な扇状地が形成されている。このため御勅使川の土砂・洪水災害の歴史はとても古く,その対策は武田信玄の時代から進められてきた。1882(明治15)年に御勅使川を視察したムルデル等の建言により翌年から内務省直轄砂防工事が実施され,空石積の堰堤が施工されたが,度重なる土砂流出によってその多くが破壊された。
1907(明治40)年,1910(明治43)年の大災害を契機として,1910(明治43)年に臨時治水調査会が設置され,ここで第1期の20河川に御勅使川を含む富士川が選出されて,御勅使川でも内務省直轄砂防事業が開始された。
1916(大正5)年11月に御勅使川上流部が砂防指定地に指定され,12月4日に芦安堰堤が起工した。その後1934(昭和9)年2月15日までの約17年の間に11基の砂防堰堤や護岸が施工された。
これらの御勅使川砂防工事を担当した技術者として,南部常次郎,安達辰次郎,荒井三七,そしてわが国の大正から昭和時代の治水砂防を築き上げた巨匠,蒲孚(かば まこと)の名前が挙げられている。蒲は1888(明治21)年2月17日に東京に生まれ,東京帝国大学農科大学林学科を卒業後1914(大正3)年同工科大学土木工学科を卒業した。そして農商務省山林局に入った後,1917(大正6)年内務省東京土木出張所に転じ,翌年内務技師となった。ここで蒲は日光稲荷川砂防工事に加えて1918(大正7)年5月から1924(大正13)年7月までの6年間御勅使川ならびに日川の砂防工事に情熱をそそぎ,わが国近代工法によるコンクリート砂防堰堤の基礎を作り,蒲式砂防としてわが国の治水砂防計画を体系化することになる。
蒲は,「御勅使川全流域を完全なる砂防工事を施工するとすれば工費は膨大になるため,今回の工事は差当り喫緊(きっきん)のもののみに留め,本支川適当の箇所に大堰堤を設置し,多量の流下土砂をかん止するほか,河床および側岸の侵食を防ぎかつ崩壊の増大を防止するために最小限の砂防施設を計画した」と述べている。堰堤材料としてはわが国の砂防事業で初めてコンクリートを使用し,上下流法面ならびに天端はすべて石張りとして,目地にはモルタルを用い,内部は石を並べてその間をコンクリートで充填したのである。
芦安堰堤の設置箇所は,両岸河床とも堅硬な岩盤からなり,川幅が特に狭く,かつ上流には広い貯砂地を控えている本川第一の好地点である。基礎掘削では地盤が凍結するため苦労したが,その後は順調に施工が進み完成した。こは両岸とも堅硬な岩盤であったためアーチ堰堤での嵩上げを実施した。この際,重力堰堤を外れる部分については鉄筋を縦横に補強して安全を図った。これにより,高さは22.65mにもなり完成当時はわが国最高の堰堤であった。
源堰堤の設置箇所は,御勅使川が山間部を離れ平地に移ろうとする,下流部唯一の好地点である。ここの上流には広大な貯砂地があり,両岸は岩盤になっているが,基礎は砂礫が厚く堆積していた。このため堰堤は本堰堤,水叩き,副堰堤の三者一体となった構造となり,堂々わが国最大の砂防堰堤(当時)となった。源堰堤が完成してから下流の河床は漸次低下したため,水流が水路内に集り,従来のような乱流,氾濫に苦しめられることはなくなった。
藤尾堰堤の設置箇所は,御勅使川本川の最上流箇所で,両岸は岩盤からなり,川幅も狭く上流には広い貯砂地を控えた場所である。本堰堤の水通しは美観その他を勘案して縄弛みと呼ばれる弧状とした。ここは,基礎岩盤の位置も浅く順調に施工は終了した。
御勅使川砂防堰堤の全体工事費のうちセメントの購入費が約5割を占めた。また人肩によるセメントの運搬費も大きく,芦安堰堤では全工事費の7%を占めた。当時は機械力がなく,せいぜいトロッコで石を運ぶくらいでコンクリートは手練りであった。一方,砂防堰堤群が建設された地域は山間地であり,耕地が少ないため農繁期といっても多くの人が工事労働者として集まったため,砂防工事は順調に進捗した。まさに,砂防堰堤工事は「セメント」,「砂,砂利,玉石」,「労力」の3要素から成り立っていた。
なお,1932(昭和7)年11月にある若き砂防の学生が当地を訪れ,貴重な当時の写真を残している。その名は大石博愛,京都帝国大学農学部の4年生である。大石は卒論の中で御勅使川の大堰堤主義に対しては,数基の堰堤による階段構造の方が土砂コントロールには良いと述べている。
現在,御勅使川砂防堰堤群のうち芦安堰堤は有形文化財に登録され,地域の財産として生き残っていくこととなった。しかも現役の砂防施設としてである。これら蒲の偉業は今後ともこの地域の人たちの守り神として愛され続けていくことであろう。
(出典:山梨県御勅使川砂防堰堤群(土木紀行),小川 紀一朗,土木学会誌89-5,2004-5,pp.58-59)
山梨県南アルプス市