佐賀市本庄町から南に真っ直ぐ下って行くと,干拓の町,東与賀町に入る。町の総面積が15.39k㎡で,土地の標高は0.4~2.8mと非常に平坦な町である。さらに南へ下ると「シチメンソウ」の看板が見えてくる。最南端には大授搦(だいじゅがらみ)堤防が頑丈そうに構え,その南には有明海が一面に広がる。
「面白し 沖へはるかに汐ひきて 鳥も蟹も見ゆる 有明の海」
この歌は,昭和天皇が1987(昭和62)年5月23日,最後に行幸されたこの東与賀海岸のことを詠まれたものである。引き潮の際には干潟にムツゴロウやシオマネキがあちこち動いている。たまに漁師が潟スキーという乗り物を器用に使いこなし,干潟を自由に滑っていく。ここ東与賀町は,有明海という内湾に面して干拓によって作られた町で,鎌倉時代以前にこの土地はなかった。
佐賀平野は,筑紫平野における筑後川以西の平野のことをいうが,筑後川,嘉瀬川,六角川などから流れてくる土砂が,わが国最大の潮位差を有する有明海の潮汐により戻されて堆積した結果造成された沖積平野である。5m等高線ははるか昔,縄文時代中期(約5000年前)の海岸線,4m等高線(牛津-佐賀-詫田-江見-久留米に至る国道264号線付近)は約2000年前の海岸線と推定される。3m等高線は鎌倉時代末期(約700年前)でこの線付近から干拓に移行してきたと考えられている。1.5~2.0m等高線がいわゆる松土居と呼ばれている,江戸時代初期(約350年前)に作られた潮受堤防の跡である。
干潟の上昇量は,有明干拓史(1969(昭和44)年9月,九州農政局有明干拓建設事務所発行)によれば,筑後川下流右岸の佐賀郡川副町干潟が最大で,年平均7cmに達する。少し西の東与賀町では年平均4.5cm,さらに西の白石平野地先では1.5~2.0cmしか上昇しない。水平方向の干潟の成長速度は,川副町で年平均10m,東与賀町で年平均5mの割合で海側へ進出している。以上のことが意味するものは,有明海湾奥部の干潟の成長については,筑後川が大きなウェートを占めているということである。沿岸住民は,この有明海の自然の営力と長年の干拓事業の努力によって,沿岸部の干拓を進めてきた。
松土居(本土居)は,現存する最古の潮受堤防で,筑後川河口から六角川住之江につながり,さらに六角川対岸の福富町住之江から有明町戸ケ里まで延びる五千間土居につながっている。この堤防は,寛永,寛文の頃の築造で,この地域で治水の神様と謳われた成富兵庫茂安(永禄3(1560)~寛永11(1634)年)が晩年に手がけた事業であると言われている。干拓地には特殊な地名が付けられており,この松土居より内側を一般に揚(あげ)と呼び,籠(こもり),松,杉,柳などの地名の呼び名がある。この堤防の外側は,搦(からみ)名がほとんどである。干拓工事の際に松丸太を約一間間隔で打ち込み,これに竹や粗朶などをからみつけて柵を作りそのまま放置しておくと汚泥が付着する。このように潮汐を利用して干拓堤防を作っていった。この松土居を境としてその内外で溝渠,耕地,集落などの景観を異にしている。松土居外は始め小規模な干拓が多かったが,明治期以降,社会生活の近代化と築造方式にオランダ工法を取り入れたことで次第に大規模化していった。
東与賀町の最南端の大授搦堤防から北に引き返すと,途中,東西に3km弱の長い石積みの堤防跡があるのに気づく。大搦堤防・授産社搦堤防である。これらの堤防の前面は石積みであるが,裏面は土堤防で草に覆われていて最初南下するときは気づかない。あらためて見直してみると,東与賀町の広い田園風景に石積みの堤防がとけ込んでいて,絵になる風景である。「大搦(おおがらみ)」は,1868(明治元)~1871(明治4)年に作られた面積70数haの干拓地。東与賀町史(1982(昭和57)年11月,東与賀町発行)によれ
ば,事業者は藩主鍋島直大候で,干拓に必要な建設資材・工事費の全てを鍋島候が支出し,作業には元興賀郷の住民が当たった。堤防延長1425m,堤防高さ2.6m,堤防幅7mのこの大搦堤防は,後述の授産社搦堤防とともに第二線堤防として,また,堤防上部は東与賀町の道路として使用され,堤防側面には石積みが延々と続く風景が見られる。
「授産社搦(じゅさんしゃからみ)」は,面積66ha余りで大搦とほぼ同程度の干拓地で,明治20年~明治期前半に作られた。東与賀町史(前出)によれば,元鍋島藩足軽3500余名が復禄請願により下賜された公債(11万円)により授産社を結成し,この干拓工事を1887(明治20)年着工。竣工後約30年間は綿や豆などを栽培してきたが,その後,株主側が肥後の資本家廣瀬氏に全てを売却。廣瀬氏はその後起きた土地所有権争いなどでその一部を分譲し,残りを耕地整理し水田とし,古賀銀行へ売却した。しかし,1914(大正3)年高潮災害により堤防が大破し,古賀銀行は修築したものの後に全てを東与賀村に売却した。堤防延長1325m,堤防高さ2.6m,堤防幅7~10mの「授産社搦堤防」は,石積みの側壁が保存状態も良く残り,堤防上部は「大搦」同様,道路として利用されている。
この東与賀地区大搦堤防・授産社搦堤防は,明治期前半に限れば最大規模の有明干拓堤防である(有明干拓史(前出))。有明海という自然の脅威にさらされながら,地域住民が艱難辛苦の末に獲得してきたこの土地は,地域住民の誇りであるに違いない。また,現在もなお石積みの堤防としてこの地域の歴史を物語ってくれる干拓堤防は,いわゆるランドマークとしての存在が光る,後世に残すべき土木遺産であると言えるであろう。
諸元・形式:
「大搦堤防」
規模 堤防延長1425m/堤防高さ2.6m/堤防幅7m
竣工 1871年
「授産社搦堤防」
規模 堤防延長1325m/堤防高さ2.6m/堤防幅7~10m
(出典:有明海湾奥の石積み干拓堤防 東与賀地区大搦堤防・授産社搦堤防(土木紀行),大串 浩一郎,土木学会誌89-8,2004-8,pp.60-61)
佐賀県佐賀市東与賀町