長崎市の出島の東側に,中島川を渡る鉄製の「出島橋」がある。この橋梁は,市道江戸町千馬線にあり,出島史跡の東の端から長崎県庁の裏門方向に架かっている。長崎市の橋梁台帳によれば,橋長36.7m,全幅5.5mとなっている。
「出島橋」は1890(明治23)年に中島川の河口に架設された「新川口橋」が,1910(明治43)年に現在地に移築されたものである。1891(明治24)年,長崎市が市制施行した。この橋は,供用されている日本の道路橋の中で最も古く,日々日本の道路橋の長寿記録を更新している,長崎市が誇る近代化遺産の一つである。現在の橋と比べると華奢で,構造部材は大きなボルトで結合され,小さな部材はリベットで繋がれた,プラットトラス橋である。
明治中期から後期にかけて長崎市の港湾改修事業が行われたが,この歴史的背景の中で,「出島橋」が建設され,現地に移築されて,橋名が代わって現在まで残されてきた。このような「出島橋」が建設された歴史的経緯と,「出島橋」の変遷について紹介する。
幕末から明治初期の混乱のために,長崎港の維持管理が十分に行われず,長崎港に流入する河川の河口では,土砂の堆積が著しく進行した。このような港の状況を憂慮した長崎県は,明治政府に長崎港の調査を依頼した。これを受けて,政府は1887(明治10)年に内務省の楢林高之とJ.デ・レーケを長崎に派遣し,長崎港を含め周辺の調査を行っている。この調査の結果,長崎港の改修事業が実施された。この工事は1885(明治18)年5月より,内務省の直轄事業として行われ,1886(明治19)年より,中島川の変流,出島突堤の築造および港内要部の浚渫に着手し,1893(明治26)年に一連の工事は竣工した。
中島川変流工事では,流出土砂を港内の不要部に放流するために,中島川を出島の背後に変流した。出島の変流により,新しい中島川にいくつかの橋梁が架設された。第1次港湾改良事業に関連して,市街地中心部の橋梁は新しく近代橋梁に架け換えられた。
この第1次長崎港港湾改修事業により,長崎市街地沿岸部の道路が,近代的な道路に整備された。この道路整備により,1888(明治21)年から1890(明治23)年にかけて,沿岸部の橋梁が伝統的な日本式の木橋から,近代的な橋梁技術により設計された木鉄混交のトラス橋に架け替えられた。市街地中心部の中島川では,1888(明治21)年に「出島橋」が新設され,一連の橋梁建設の最後の1890(明治23)年に,中島川の河口に鉄製のトラス橋である新川口橋が新設されている。「新川口橋」の建設の経緯は,当時長崎市で発行された新聞,「鎮西日報」の記事の中に見ることができる。
明治23年6月21日 橋梁架設工事
「豫て報導せし出島より江戸町に架設する橋梁は堅牢なる鉄橋となす目論見にて日本土木会社が七千円に落札せしめ右工事鉄材を米国に注文して此程既に到着せしを以て既に足場取立に従事中なるが右架設につき土木会社の技師岡實康氏は一両日中来崎する筈なれば同氏の到着を待ちて鉄材の組立に取りかかる由因に記す同橋は長二十間巾三間の目論見なりと云う」
これらの記事の内容より,「新川口橋」の材料はアメリカから輸入し,大日本土木会社の岡實康の監督の下に,1890(明治23)年中に架設されていることがわかる。
「出島橋」の右岸の橋名板には,出島橋の下に「明治四十三年架」と記してある謎が残る。「長崎市制50年史」第13章第2節橋梁の中に,次のような記述がある。
「四十二年十一月二十四日市会に於て江戸町より出島に至る新川口橋は下流の玉江橋に接近し,交通上存置の要が少ないからこれを撤去し,同材料を利用して,県費で架換の出島橋の工事を市で請負う事を決議した。」
これらの資料により,橋名板に「明治四十三年架」とある現在の「出島橋」は,1890(明治23)年架設の「新川口橋」を,1910(明治43)年に解体移築したものであることがわかる。
出島の対岸から「出島橋」越しに,1878(明治11)年に建設された旧出島神学校が見え,いずれも淡いブルーで塗られた橋と教会の川縁の風景は,繁栄した明治中期の長崎市の歴史的景観を残す唯一の場所になっている。世紀を越え,原爆の爆風にも耐えて残った「出島橋」。夜にはライトアップされ,長崎の人から「鉄の橋」と言って親しまれている。
諸元・形式:
構造形式 木鉄混合橋(プラットトラス形式)
規模 橋長:百拾呎(33.33 m)/幅員:拾八呎(5.49 m)
(出典:出島橋(土木紀行),岡林 隆敏,土木学会誌89-8,2004-8,pp.58-59)
長崎県長崎市(中島川)