男木島(おぎじま)は,高松港より雌雄島海運フェリーで約40分の高松市沖合いに浮かぶ,周囲約5kmの島である。その島の北端に,映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった男木島灯台がある。香川県産の御影石積みの灯台で,百十余年経った今も建設当時の姿を残している。
香川県高松市男木島の北側には,関西と九州を東西に結ぶ全国2位の交通量(一日当たり約900隻)を誇る海上輸送の大動脈,「備讃瀬戸東航路」がある。男木島灯台は,まさに「海の銀座」といえるこの航路に面して建っており,備讃瀬戸を航行する船舶の安全を見守っている。
男木島灯台は,今から108年前の1895(明治28)年,日本政府の日清戦争直後の海運助成策の推進により,瀬戸内海の海上交通量が増加したことから建設された。総工費は,当時の金額で1万820円25銭2厘を要したといわれている。灯台完成後は,職員2名が家族とともにこの地に住み,孤立した厳しい環境下で灯台の管理を行った。1987(昭和62)年に無人化され,その後,灯台に隣接する官舎は改築されて灯台の歴史をテーマとする資料館として再利用されている。
男木島灯台は,明治期に多数建造された石造の西洋式灯台のひとつである。日本における西洋式灯台建設事業は,外国人指導のもとにその第一歩を踏み出している。1866(慶応2)年5月に,いわゆる改税約書(江戸条約書)が締結され,8ヵ所の灯台建設が定められた。明治初期に建設された灯台は,この条約に基づいて進められていく。
しかしながら,明治も中頃になると,灯台建設は外国人の技術指導から離れ,ひとりだちをした日本人技術者の手によってなされるようになった。男木島灯台も,日本人の手によって造られたものである。
同灯台は,建設から100年以上も経過しているが,表面の風化が少ないうえ構造が素晴らしく,保存状態もきわめて良好で,今なお建設当時の姿を残しているため,訪れる人を驚かせる。
この灯台は,基礎部に平屋建ての石造付属舎を有し,地上から頂部まで約14mの高さを有する円形の石造構築物である。灯塔の2階まで石のらせん階段が続き,2階と3階の間には,青銅製の鋳物梯子が円形状に連結されている。
その上階は,灯室および踊場となっている。最上部には,頂部に避雷針を有するドーム型の灯籠があり,灯芯部には,床上高さ約5mの分銅筒がある。付属舎の屋根は,木造小屋組み(銅板葺き)で,内部は縦羽目板張り仕上げとなっている。
同灯台に使用されている石材は,香川県産の御影石「庵治石」の名で知られる良質の御影石である。庵治石は花崗岩の一種で,石英と長石を主成分とした少量の黒雲母と角閃石を含む硬い岩石であり,構成鉱物の一つ一つの結晶がきわめて小さく,結合が緻密なため他地域の花崗岩に比べて硬いのが特徴である。水晶と同じ七度という硬度のため細かな細工が可能で,水を含みにくいため風化・変質にも強い。灯塔は総御影石造りで,灯台の上部へ上る螺旋階段も,すべて御影石でできている。
通常,日本の灯台の外壁には,赤色または白色等の塗装がなされているが,同灯台は,庵治石の素材を生かすため外壁塗装を施していない。このような灯台は,日本では男木島灯台ほか1ヵ所のみといわれており,きわめて珍しい。
明治期に建設された灯台の数は,公,私設を含み約200基といわれており,特に明治中期以降は,海運助成策が推進されたことにより灯台予算も大幅に伸び,わが国主要沿岸灯台のほとんどがこの時期に整備されている。明治期の灯台は,今なお68基が現用施設として稼動しており,その保存率は立地条件と自然環境の厳しさから考えると驚くほど高いといえるだろう。
このように,明治灯台史ばかりでなく,わが国の建築技術史および建築史上の資料といえる建造物が時系列的に多数現存することは,灯台以外にあまり例がないのではないか。
歴史的価値の高い明治期の灯台について,その価値を損なうことなく適切な保存を図るため,これらを運用・管理している海上保安庁が1985(昭和60)年に有識者を集めて「灯台施設調査委員会」を設置した。
同委員会では,明治期の灯台を歴史的な価値等を考慮して,4段階(A~D)に区分した。男木島灯台は,特に貴重な灯台として,保存にあたり,その保存方法を特別委員会で検討する必要のあるAランクに属する保存灯台23基のうちのひとつとされている。
諸元・形式:
形式 石造(御影石積み)灯台
規模 高さ14.17m(地上から頂部まで)
竣工 1895年
(出典:海の道標 男木島灯台(土木紀行),塩山 壽男,土木学会誌89-1,2004-1,pp.62-63)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
香川県高松市(男木島北端)