島根半島の南側,宍道湖と中海に挟まれた平野に,水都・松江は位置している。かつて小泉八雲が「繊麗な甲斐絹のように,出没変幻を極める」と絶賛した宍道湖の夕景は,現代に至ってもなお地元住民や観光客を魅了し続けている。堀尾吉晴公ゆかりの松江城を囲む堀川をゆく遊覧船など,水都の風格を思わせる風景に市内随所で出会うことができる。
大橋川の川辺に広がる市街地から車を南に走らせると,5km過ぎあたりから山道に入り,忌部(いんべ)と呼ばれる地区に辿りつく。ここには松江を水都たらしめるもう一つの施設群がある。粗石コンクリート造の「千本堰堤」は,1918(大正7)年に竣工した山陰地方初の水道ダムである。長く悪疫の流行に苦しんできた松江市民にとって,明治維新による近代化開始から50年を経た後の上水道敷設は悲願であったに違いない。時しも1918(大正7)年は松江市自治制施行30周年にあたり,同年10月15日から4日間で奉告祭,通水祝祭,来賓を招いた祝賀会,功労者表彰式などが連日大々的に挙行されている。上水道敷設の現地調査と設計担当者にはバルトンや中島鋭治という当時全国区のエンジニアの名前も見られ,松江市あるいは山陰地方全体における近代化の端緒を開くべき大事業であったことが窺えよう。
千本堰堤よりさらに上流には「佐水(さみず)」と呼ばれる湧水がある。バルトンが1898(明治31)年に作成した内務省報告書には,この湧水が「水質も良く噴泉の勢いも強いので,(直接水源として用いても)濾過施設やポンプ機械の必要はない」と記されているが,後に中島鋭治の設計方針で忌部地区に濾水場(忌部浄水場)を,さらに市内床几山に配水池を敷設することとなった。忌部浄水場は千本堰堤の翌年1919(大正8)年に完成している。
忌部地区には現在もこれらの近代水道施設が隣接して稼動している。千本堰堤周辺は桜の公園として整備されており,春の行楽地として市民の賑わう場所となっている。忌部浄水場には現在一般客は立ち入れないが,浄水池にはみ出す特徴的な配置とゼセッションの意匠をもつ集合井室や6基の調整室には景観資産としての可能性も今後大いに期待されるであろう。
千本堰堤については島根県の近代化遺産調査においても綿密な調査がすでに行われているが,今回の取材で創設当時に作成された各水道施設の設計図面が忌部浄水場に保存されていることがわかった。浄水場職員の方のお話によれば,これらの図面は終戦直後,当時の職員が浄水場の裏山に埋めたが,後に掘り返され現在まで倉庫に保存されているとのことであった。土中で腐食したためか傷みが激しいが,配水池平面図をはじめ「堰堤及溢水路之圖」「堰堤之圖」「濾過池之圖」など明快に読み取れるものも少なくない。堰堤断面図のほか,溢水路などの詳細図に至るまで,保存状態は比較的良好である。貴重な設計史料として博物館など然るべき施設内への保存が急がれるべきであろう。
さらに,千本堰堤の堤体下流部側の下部右岸側に,直径2mほどの自然石のような構造物が確認された。直線的なダム下流部にあって,日本庭園の石組を思わせる形態で突出して施されている。浄水場職員の方のお話によれば,この構造物は排水口正面に位置しており,排水流による堤体下部の洗掘を防ぐいわば「減勢工」の役割を果たしているとのことであった。先述の設計史料にも具体的な記述が未だ見つかっていないため設計者の意図そのものは裏づけられてはいないが,この「減勢工」には戦前の土木工学と造景行為との融合を見て取る思いがした。
ゆたかな水音を奏でながら越流する落水の表情とともに,下流部のRCアーチ副堰堤橋,そして忌部浄水場へと続く敷地全体が,近代土木技術によって造営された第二の「水都」としての松江の顔を垣間見せてくれてはいないだろうか。千本堰堤のみならず,忌部浄水場や床几山配水池も含めて,近代都市松江を成立させた総合的利水システム遺産としての価値も見出せるかも知れない。
(出典:千本堰堤 もう一つの水都・松江(土木紀行),岡田 昌彰,土木学会誌89-6,2004-6,pp.52-53)
島根県松江市