江戸時代,箱根の馬子連たちに「箱根八里は馬でも越すが,越すにこされぬ大井川」と唄われていた大井川は,かつて駿河国と遠江国の境を流れていた。そのため人々の意識の上でも川が境界であり,対岸に渡るという行為が容易にはできない,いわば大きな堀のような存在であっただろう。事実,当時の川幅が12町(約1.3km)もある大きな川であった。しかも,ここには橋も渡し舟もなかった。そのため,東海道を旅する旅人は川越人足を雇って,彼らの肩車に乗るか,れん台という板に乗るかしなければ渡れなかった。広重の有名な浮世絵である『東海道五拾三次』(保永堂版)においても「嶋田」と「金谷」の絵のいずれにもその様子が描かれている。
現在でも,その人足たちの集合場所であった番宿などの復元家屋や博物館などが島田市側に整備されており,当時の人足たちの生活や旅人たちの苦労が理解できるように工夫されている。それらの大井川川越遺跡からほど近く,ちょっと上流に鉄橋でできた大井川橋がある。交通の要衝であった東海道にしては,意外にも鉄橋の建設は新しく,1928(昭和3)年の完成である。
しかし,昭和になるまで大井川に橋が架けられなかったと言えば嘘になる。明治期を通して何度も木製橋は架けられてきており,1883(明治16)年には島田・金谷間の全架橋が完成したものの,その後も何度か洪水によって橋柱が破損や流出を繰り返されてはまた架け替えられてきた。1889(明治22)年には東海道線の開通によって往還自体の交通量が激減し,橋の破損流出箇所の補修もままならないこともあったようだ。
江戸時代より,大井川は洪水時に水流が急で砂礫の量も多いため橋脚の維持が困難であったことや,渇水時には水深が浅くなり,渡船も運行できないという事情がその背景にあった。しかし,全長1000mを越える薄青色の17連のトラス橋(下路式のプラットトラス)は美しい。
大井川橋を通勤通学などで利用する人々は多く,渋滞もよく発生する。大型車など車の通行が多いためか,トラス橋の脇に歩行者用の黄色に塗られた歩道橋がついており,車道と歩道が完全に別になっている。そのおかげで,車に気をつけなくても歩いて橋を渡ることができるのは嬉しい。残念なことは,リズミカルに17もの小さなアーチを描くさわやかな薄青色の鉄橋を,黄色の柵が付けられた歩道橋が一直線に横切っている姿が,美しくないことである。
ところで鉄橋の大井川橋は,1924(大正13)年4月12日に起工式を行い,4年後の1928(昭和3)年4月8日に竣工式をあげることができた。当時の工費で174万3674円であったという(島田市史による)。島田土木事務所から送ってもらった橋梁現況調査表によれば,橋長1026.4m,幅員は道路部8.30m,車道6.30m,歩道部は1.50m,最大支間長59.4m,径間は17である。
当時,大井川橋開通にあたって,島田・金谷両町とも盛大な祝典を行ったという。投げ餅,旗行列,提灯行列,芸者の踊り,角力,軽気球の飛揚,仮装行列,花自動車行列,写真展覧会なども開催され,当地の人々がいかに希求していた橋であったかが伺われる。
三井住友建設の静岡支店に保管されている『国道1号線大井川橋梁架橋工事』の工事状況写真の綴りによれば,橋脚を造るまでが大変であったようだ。トロッコによって資材を運び,コンクリート打ち作業や橋脚側面のアーチ部の石張りなど,施工に苦労した様子が伝わってくる。この大井川橋は,上流に架けられた新大井川橋(1971(昭和46)年完成)に国道1号線の座を譲り渡したものの,県道島田金谷線の橋として現在も地域の生活や産業にとって欠くことのできないものになっている。
大井川橋をはじめ,各地に残る近代土木遺産はいわば地域や国づくりの証人でもある。近代化を急ぎ,さまざまな歪はあったかもしれないが,土木遺産は交通の変化や治水,産業の盛衰を物静かに語ってくれる。過去と現在をつなぐ意義からも,大井川橋のような構造物を,遺産として子々孫々まで引き継いでほしいと感じた次第である。
諸元・形式:
形式 トラス橋
規模 橋長1026.4m/幅員 道路部8.30m,車道6.30m,歩道部1.50m/最大支間長59.4m
竣工 1928年
(出典:大井川橋(土木紀行),寺本 潔,土木学会誌89-9,2004-9,pp.56-57)
静岡県島田市,金谷町