水は人間の生活を支える不可欠な要素であることは言うまでもない。歴史を振りかえってみると古代以来世界の主な文明は水に対してさまざまな工夫をし,人口の集中した都市の飲料や灌漑農業のための給水に励んできた。それは日本においても例外ではなく,給水施設が17世紀から存在し,木造の水道橋も作られていた。技術が進み,圧力の変化に頼る水道管が開発されると,水道橋を造る必要はなくなった。しかし,普通の配水池からの配水では水圧の足りない標高の高い場所への配水(高区配水)のため,給水塔という建造物が近代に出現したのである。給水塔は大都市化に不可欠な配水技術の象徴とみなされ,その設計に工夫が注がれ,なかには灯台と争うほどの雄大な姿と優雅さを持つ作品も存在する。
千葉高架水槽の塔は,そのきわめて良い例である。千葉市中央区矢作町に位置する高架水槽の塔は千葉浄水場の一部であり,1935年11月から1937年2月にかけて,千葉県が水道事務所を開いた直後に建設された。千葉県営水道史(1982年)によると,県営水道は,給水人口25万人,給水対象区域千葉市,松戸町など,1市12町村の計画で始まった。一日の最大給水量は37500㎥で,そのうちの10500㎥/日は千葉浄水場が供給することになっていた。
浄水場は,千葉市を東西に流れる都川の北方,ボアホール・ポンプ等の入った本館および五つの深い井戸と,都川の南方の台地上にある内径29mの配水池,そしてその東に聳える高架水槽の塔からなる。
塔の平面形状は正12角形で,高さは約30m,鉄筋コンクリート造5階建てとなっている。1階は配水および水槽まで水を汲むためのポンプなどが入っている機械室,2階と3階は文庫や事務室などに利用され,4階と5階にあたる部分に水槽が設置されている。この高架水槽は満水位標高50m,内径11m,有効水深5m,容量は475㎥で,その容量は7万人を対象に,一日最大給水量の約一時間分に当たる。
水槽本体の中央部には直径約2mの鉄筋コンクリートの円筒形垂直通路が設けられ,その内部に供給配水を行う直径350mmの水道管が敷設されている。また,この円筒形通路から建物の外壁まで,鉄筋コンクリートの梁が放射状に架けられている。
塔は,浄水場のなかで最も目立つ要素である。建物は芝生の生えた基壇に建ち,その北側,塔の中央軸線上に,入り口までのコンクリート欄干を備えた,踊り場付きのモニュメンタル階段が設けられている。入口の周囲には巨大なシマ・レヴェルサ(古典建築に見られる逆「s」形の刳り形(くりかた))が使われているが,外観全体に本格的な古典様式の刳り形はほとんど利用されておらず,面の突出とくぼみだけで刳り形を示唆し,装飾は控えめである。このような省略した古典様式と全体の組み合わせは,建設当時国際的に流行していたアール・デコの特徴であり,その味が強くでている。
外観の表面仕上げは白く塗ったモルタルであるが,玄関と12角形部分の台座のところに石造の雰囲気を出し,ブロックとブロックの隙間の線が表現されている。次第に細くなる12角形の塔の王冠として,5階にはコーニスのように突出するバルコニーが巡り,勾配の浅い円錐形屋根の天辺に円筒形の小型点検室が乗る。デザインの起源と設計者の名前は不明であるが,全体のプロポーションから細部のデザインまでの工夫を見ると,この施設を造った人々の誇り高さが感じられる。最近,設計に伴って造られたと思われる見事な模型(1:20)が発見された。これにより,関係者の間で外観に対する関心が如何に高かったかが窺える。
また,台地上に植林された桜,夜間,ライト・アップのために設けた配水池上部の灯柱の設置,給水塔におけるバルコニーの設置等を見ると,多くの人が施設を訪れることを想定し,公園のように整備されたらしい。
建設された当時の写真を見ると,浄水場は農家などが点在する田園地帯を背景に,現代化のシンボルのように建っていた。70年近くたった現在,保存状態のきわめて良い給水塔はまだ利用され,立派に建っているが,周辺地域が全面的に開発され,現代化の波は台地の裾まで押し寄せている。そして台地の上の塔を囲む芝生と桜の木々は,自然のオアシスとして,コンクリートとアスファルトの中に残り,都市景観のなかで建設当時と全く違った意味で貴重な存在となっている。
諸元・形式:
形式 鉄筋コンクリート造
規模 高さ30m/内径11m/有効水深5m/容量475㎥
竣工 1937年
(出典:千葉県水道局千葉高架水槽の塔 給水制度の近代化が生み出した雄大さ(土木紀行),マーティン・モリス,土木学会誌89-3,2004-3,pp.60-61)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
千葉県千葉市中央区矢作町