北海道に廃線跡は数あれど,その中でも抜きんでて北海道らしい雄大さを誇っているのが,狩勝峠(かりかちとうげ)の鉄道遺産である。
小樽から札幌を経て空知太(現・滝川)まで達していた炭鉱鉄道を,北は稚内,東は釧路・網走まで延伸し,もって北海道開拓の大動脈となす。この構想を立案し実施に導いたのは,琵琶湖疏水事業で名高い田辺朔郎であった。この壮大な計画はしかし,東へのルートに難題を抱えていた。北海道の二大入植地,石狩・十勝の平野を分断している日高山脈,ここを鉄道で越える地点を見つけねばならなかったのである。
1897(明治30)年春,2人の技師を従えて路線踏査に向かった田辺は,前年までの調査から山陵のあるひとつの鞍部(くびれた部分)に目星をつけていた。当時,トンネル掘削の技術はまだ未熟で,限られた工費と時間では長大トンネルには挑めない。その鞍部は峰の部分が細くなっており,ここへ標高ギリギリまでアプローチし,短いトンネルで通過することを考えた。旭川からの道程,熊の出没におびえながら目的の峠に登りつめた一行は,足下の眺めに驚嘆する。一面の原生林,その奥には平坦な十勝平野が遥か彼方まで広がっている。後に「新日本八景」に選ばれ,「世界三大車窓」とまで称されることになるこの眺め。まだ名称のなかったこの峠に田辺は,石狩と十勝の国境に位置することから「狩勝峠」と名をつけた。
トンネル箇所が特定されると順次,路線の設計が決められた。狩勝峠直下には延長946mの狩勝隧道を建設し,隧道の途中からは十勝側に向って25‰(1000分の25)の急勾配が約15kmもの長さで続く。この傾斜は当時の蒸気機関車が登れる最大の角度である。路線は急な山腹にぴったりと沿い徐々に標高を下げていき,新内沢の手前で長さ125mの新内隧道を抜ける。次が深さ78mの谷越えである。ここに橋梁を架けるには工費と資材搬入に困難があるため,盛土施工により24000坪におよぶ土盛りを行い切り抜けた。これが新内沢大築堤である。沢を通過した後は緩やかな佐幌岳の山腹に達し,限界の1000分の25勾配で最小半径180mのS字カーブ大築堤でもって右に左に蛇行しながら下っていく。新内駅を通過すると大築堤で越えた沢を再度,煉瓦アーチ橋によって渡る。小笹川橋梁と呼ばれるこのアーチの高さは7m。北海道に現存する鉄道用煉瓦アーチで最大である。その後,路線は佐幌高原に出ると約6kmの直線の築堤で下り十勝側の玄関口,新得に到達する。
1901(明治34)年,人が足を踏み入れたことのない原始の森の中で,鉄道建設が開始された。1年のうち5か月は雪に閉ざされ作業が制限される極寒の地であるが,北海道を横断する重要幹線の建設だけに,工事は急がれた。このため,建設資材は現地のもの,土や石がメインとなり橋を架けるべき箇所も盛土で抜ける人海戦術で工事にあたった。気候はきびしく作業は過酷,のちの文献には枕木の数ほどの犠牲者が出たとも記されている。こうして1907(明治40)年9月,落合~新得間が開通した。厳しい峠越えを有するこの路線は「狩勝線」と呼ばれ,その後長年にわたって北海道の発展を支えた。
戦後,輸送量の増大に伴う運転条件の過酷さなどから長大トンネルを使う新たな路線が計画され,1966(昭和41)年に切り替えられる。しかしここで廃線とはならず「狩勝実験線」として,約10年間生き残る。同じ勾配が延々と続く坂道の直線区間が活用され,貨車が競合脱線(線路や車両の状態に異常がなく力学的要素の競合による脱線)するメカニズムの解明など,多くの研究成果を出して鉄道の安全性向上に貢献した。
そして現在,実験線も撤去され深い森に帰ろうとする路線に,新たな役割が与えられた。自然景観そして歴史を歩いて楽しむ,フットパスとしての役割である。地元のNPO法人「旧狩勝線を楽しむ会」により続けられてきた調査や保存,廃線跡ツアー等の取り組みが町の遊歩道整備へとつながり,実現した。北海道開拓のいしずえを後世に残すため,より多くの人が訪れてその魅力を知ることができるように,整備が続けられている。
諸元・形式:
「小笹川橋梁」
形式 レンガアーチ
規模 高さ7m/径4.6m
竣工 1907年
「大築堤・大カーブ」
形式 土石
規模 高さ16m/長さ770m
竣工 1907年
(出典:狩勝峠の鉄道遺産 樹海に眠る開拓の大動脈(土木紀行),原口 征人,土木学会誌89-2,2004-2,pp.68-69)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453
北海道新得町