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山根グラウンド観覧席/100年近く現役続ける石積み観覧席

投稿者:仕事の風景探訪WG 投稿日時:火, 2025-06-10 08:42

仕事の風景探訪:事例6(四国支部)【技術のチカラ】【コミュニティのチカラ】【記憶のチカラ】

事業者:新居浜市(当初の建設は住友各企業)
所在地:愛媛県新居浜市角野新田町
取材・執筆:ライター 大井智子
取材担当:白柳洋俊(愛媛大学/仕事の風景探訪プロジェクト・四国支局長)


グラウンドに足を踏み入れると、壮大な石積みの構造物が目の前に広がった。愛媛県新居浜市にある「山根グラウンド」の観覧席だ。明治時代に稼働していた別子銅山の製錬所跡地に、1928(昭和3)年に完成した。施工会社ではなく、住友の社員が休日を返上し「作務(さむ)」といわれる労働奉仕により整備されたというから驚きだ。

 遠くから見上げると、まるで段々畑を縮めたような眺めだ。生子山(しょうじやま)の斜面に沿ってつくられた観覧席の収容人数は3万人以上といわれている。当初のグラウンドは住友各社対抗の運動会などに利用され、現在は山根公園内の施設として新居浜市が管理し、現役の観覧席として広く市民に使われている。100年近く経過したいまも、ほぼ当時の姿を残している。

階段状の石段は最大で27段。東西方向の延長は最長約120mあり、西側が緩やかに湾曲している。南北方向の奥行きは約30m。石積みは、生子山の斜面の擁壁も兼ねている。


石段は最大で27段ある(写真:白柳 洋俊)


石積みは石同士を組み合わせて固定する空石積み。段ごとに傾斜を設けて積む矢羽根積みとなっていた(写真:大井 智子)

石積みに使われたのは、敷地西側を流れる国領川の角が丸い川原石だ。段ごとに交互に傾斜を設けながら石を積む矢羽根積みで、モルタルなどで目地を固定しない空石積みとなっている。

観覧席の上は、意外と踏み面が広い。場所によって幅員は異なるが、広いところは2m近くありそうだ。市民がお祭りなどを観覧する際は、数家族がゆったり座れる幅があるという。踏み面の表面は土で草が生えており、公園整備の際にモルタルによって固められた箇所もある。

石の形や大きさは一律ではなく、エリアごとに積み方が微妙に違っている印象だ。施工した社員の組ごとに個性が現れているのだろうか。


石の積み方は場所によって施工した人たちの個性が現れている印象を受けた(写真:白柳 洋俊)


踏み面の幅員は意外と広い。西側は緩やかに湾曲している(写真:白柳 洋俊)

新居浜市は、住友の別子銅山を中心に形成された企業城下町だ。グラウンドと観覧席は、昭和初期に住友別子鉱山株式会社の最高責任者を務めた鷲尾勘解治(わしおかげじ)が提唱した「地方後栄策」の一環として整備された。

それにしてもこの広大な観覧席は、どのような経緯でつくられたのだろう──さっそく山根公園を管理する新居浜市役所を訪れて、誕生までのいきさつを聞いた。

斜面地に残された土留めの石積み

別子山村(べっしやまむら、現・新居浜市)の山の中で、住友が別子銅山を開坑したのは1691(元禄4)年のことだ。

鉱脈が深くなるにつれて採鉱本部も移転し、1916(大正5)年に東平(とうなる、現・新居浜市)、1930(昭和5)年に端出場(はでば、現・新居浜市)と徐々に山を下りてきた。1973(昭和48)年に閉坑するまでの約300年間、住友による鉱業活動の中で培われてきたのが、石積みの文化だという。

 「彼らは平地のない山の中の谷筋を、自分たちで開拓してきました。斜面地を切り土や盛り土で造成し、石積みで土留めして平らな土地を作り、事務所や社宅、学校などを建設したのです。そうした石積み文化のDNAが住友各企業社員の中に代々受け継がれてきたのでしょう」。新居浜市の企画部別子銅山文化遺産課別子銅山産業遺産統括参事の秦野親史さんはこう話し、1枚の航空写真を見せてくれた。

 写っていたのは、段々畑のようにびっしりと続く石積み群。かつて、この場所に社宅が並んでいたことを教えてくれる。2023(令和5)年12月、東平地区で大阪・関西万博の「住友館」建設用に大規模に樹木が伐採された時に、山の斜面に呉木住宅の石積みの遺構が現れたのだという。


樹木が伐採された後、東平の斜面地の社宅跡に土留めの石積みが現れた(写真提供:新居浜市)


明治時代に開拓された東平の斜面地。社宅や学校、事務所などが立っていた(写真:原 茂夫)

新居浜市の別子銅山文化遺産課課長の土岐幸司さんは次のように話す。「住友別子鉱山の鷲尾勘解治は、鉱石を掘り尽くした後も新居浜が発展するように様々な都市基盤整備を実施しました。鉱業から工業への移行を見越し、海岸沿いに埋立地を造るなどのインフラ整備のほか、銅山なき後の都市計画を提唱したのです」

山根グラウンドと観覧席も福利厚生施設の一つとして建設された。閉山後、住友の協力のもと、1986(昭和61)年、昭和天皇の在位60年を記念して計画された健康運動公園として、グラウンド(観覧席を含む)と社宅跡を新居浜市が整備した。2009(平成21)年には「山根競技場観覧席」として国の有形文化財に登録されている。

昭和、平成、令和時代と1世紀近く存続できた理由

社員がボランティアでつくった石積みの観覧席が、なぜ1世紀近くも当時の姿をとどめて現存できたのだろう──そんな疑問に土岐さんは、「完成当初からずっと現役で使われ続けてきたからではないでしょうか」と答えてくれた。

もともとこの場所には1888(明治21)年から1895(明治28)年までの8年間、山根製錬所があった。当時の産業遺構として唯一残るのが、生子山山頂の「旧山根製錬所煙突」だ。グラウンドを含めた周辺一帯は、赤レンガの煙突があることから、「えんとつ山」の愛称で市民に親しまれてきたという。市民活動も盛んで、任意団体の「えんとつ山倶楽部」が山道を整備したり、イベントを企画したりと、積極的に活動している。グラウンドや観覧席もえんとつ山と一緒に、日常の身近な存在として市民に愛されてきたようだ。


観覧席の上に見えるのは大山積神社。生子山の山頂に見えるのが「旧山根製錬所煙突」(写真:大井 智子)

山根グラウンドの観覧席が、大きな存在としてスポットライトを浴びるのが毎年10月に開催される「新居浜太鼓祭り」の時だという。地区ごとに豪華に装飾した太鼓台を約150~200人の男性が担いで競うお祭りで、「特に10月17日は『上部地区山根グランド統一寄せ』として山根グラウンドに20台ほどの太鼓台が集結します。その様子を見ようと、全国から集まった人たちが観覧席をびっしりと埋めるのです」。こう熱く語るのは、新居浜市建設部都市計画課技幹の庄野仁規さん。スマートフォンからとっておきの写真を見せてくれた。

すごい。米粒みたいな人、人、人で観覧席が埋まっている。確かに、収容人数とされる3万人は集まっていそうだ。


市政80年を記念して夜間開催された年の、「新居浜太鼓祭り『上部地区山根グランド統一寄せ』」。
観覧席が多くの人で埋め尽くされた(写真:庄野 仁規)


2024(令和6)年の「上部地区山根グランド統一寄せ」の様子(写真:庄野 仁規)

お祭り以外でも、グラウンドは地域の運動会や野球、グランドゴルフなどに使われるという。つい先日は、桜の花見客で観覧席がにぎわっていたようだ。


桜の満開時期は、花見客で観覧席がにぎわう(写真:白柳 洋俊)

それにしても、これだけ大規模な空積みの石積みが原型をとどめているのは、構造面に何か秘密があるのだろうか──。

秦野さんによると、「これまで石積みが大きく崩れたことはなく、2001年に安芸灘で発生した芸予地震でも大きな被害は発生しなかった」という。「1つの段の踏み面が広く、奥行きが長いことや、勾配などと関係があるのかもしれないですね」と推察する。

庄野さんは、「どれだけ土を盛っているのか、背面の土量によってかかる土圧は大きく変わってくるはずです。ただ空石積みなので、構造計算で検討することはできません。すべて経験則で積んだのでしょう」という。

普段は鉱山に従事する一般社員が、石工顔負けの施工技術を備えていたとは──


取材当日、新居浜市役所の職員の方々が集まって話を聞かせてくれた(写真:白柳 洋俊)


土岐さんは、資料を広げて別子銅山の変遷について説明してくれた(写真:大井 智子)

新居浜市で公園整備された際の改修跡を発見

天皇陛下御在位六十年記念健康運動公園の指定を受け新居浜市で改修工事を実施した。

現地に移動して観覧席を見学すると、改修の足跡を見ることができた。石積みの間からは、水抜き用のパイプが顔をのぞかせていた。また、観覧席は大きく上部と下部に分かれ、間に幅員の広い通路があるが、そのすぐ下の段に、排水溝とその蓋のグレーチングが横断方向に延びていた。


写真上から2段目の石積みに、水抜き用のパイプが挟まれていた(写真:大井 智子)


石積みの上部と下部の間にモルタルで舗装された通路が配置する。
すぐ下の段に排水溝とグレーチングが横断方向に延びていた(写真:大井 智子)

建設当初の観覧席は今よりも席数が多く、北西面を除き馬蹄形にぐるりとグラウンドを囲む形をしていたという。「おそらく体育館を建設する際、グラウンドとの間にある観覧席を撤去したものと思われます」(庄野さん)。


創建当初は、写真右側に見える体育館とグラウンドの間に、観覧席が続いていた(写真:大井 智子)

見学する我々の誰よりも“長寿”な石積みを眺めているうち、様々な想像がふくらんできた。共に取材に臨んだ愛媛大学の大学院理工学研究科准教授の白柳洋俊さんは、「もしかすると、創建当時は上部と下部の観覧席を隔てる通路はなく、上から下まで石積みが連続していたのではないでしょうか」と目を輝かせる。

あとから1段分を取り除いて擁壁を補強し、さらに使い勝手がいいように広幅員の通路を整備したのだろうか。有力な証拠として白柳さんが示すのが、上部の一段目の石積みだ。ほかの段に比べると蹴上げ部分がはるかに高い。もしかするとそうかもしれない……。

だが残念なことに、観覧席の詳しい資料や図面はほぼ残っていない。じっとたたずむ石積み群は、静かに我々のロマンをかきたてていった。


通路右側に見える上部の観覧席の一段目は、ここだけ石積みが高く積まれていた(写真:大井 智子)

「現場を知る」ため一工夫として採掘に従事した最高責任者

この堅牢な観覧席を背に送り出した、住友各企業の社員による勤労奉仕について知るために、次に、グラウンドに隣接する「別子銅山記念館」を訪ねた。

別子銅山が閉山した2年後の1975(昭和50)年に建設された記念館で、住友グループ発展の原点を伝える様々な資料を展示している。


別子銅山記念館で館長の神野和彦さんと主任の秋山将さんに話を聞いた(写真:白柳 洋俊)

別子銅山記念館で館長を務める神野和彦さんは、「元禄時代から採鉱を続けてきた住友は、300年以上にわたってこの地域にお世話になってきました。いずれ山の鉱脈が尽きた時、町が衰退せず今後も発展し続けるよう、鷲尾勘解治は様々な対策を講じてきたのです」と説明する。新居浜市職員の土岐さんの話にも出てきた通りだ。

 鷲尾勘解治は、当時、無尽蔵と思われていた鉱脈について、昭和初期に厳格な鉱量調査を実施した。その結果、「約20年後に鉱脈が尽きる」という結論に達し、これを公表。新たに工業都市として新居浜が発展するために、新居浜港の築港と海岸部の埋め立てや、都市計画道路の整備に着手した。さらに、従業員が快適に生活できるように、山根製錬所の跡地に住宅を新設し、「山根グラウンド」などの福利厚生施設を充実させた。

 もともと鷲尾勘解治は高校・大学時代に寺で禅宗の修行を積んでいた。住友本店に入社し別子鉱業所勤務になってからは、まずは現場を知る必要があると考えて、3年間身分を隠して一坑夫として坑内労働を体験したというから、すごい。

 別子鉱業所支配人を経て住友別子鉱山専務取締役に上り詰めた鷲尾勘解治は、常に労働者と地元の人たちの福祉に心を砕き、会社と地元の共存共栄に向けて事業の経営に当たったという。「住友の理念として受け継がれているのが、『自利利他公私一如』という言葉です。住友を利するとともに、国家や社会を利するという考えです。公私は相反するものではなく、一つのものという意味です」(神野館長)。


昭和初期の山根グラウンド。新居浜の住友連系各社従業員で組織する「住友予州親友会」の大運動会が、毎年11月に開催されていた(写真提供:別子銅山記念館)

 石を素材に選んだことで“生き永らえた”観覧席

観覧席の上段には別子銅山の守護神の「大山積神社」が、採鉱本部の移転と同時に遷宮されている。祭事の際は、社員が力士を務める奉納相撲が行われていた。若かりし第24代式守伊之助が行司を務めたこともある。現在、別子銅山記念館が建つ場所に、以前は大きな土俵があったという。さらに別子銅山記念館の裏手には、相撲を楽しむための観覧席がいまも一部、残っている。山根グラウンドの観覧席と同じ石積みだ。


別子銅山記念館の裏手に、相撲を観戦するための石積みの観覧席(写真正面奥)が残っていた(写真:白柳 洋俊)

 住友各企業の社員は、山根グラウンドや観覧席だけでなく、これら大山積神社の敷地や相撲場も全てつくりあげたという。別子銅山記念館で主任を務める秋山将さんは、「当時は重機などありません。まず土地の整地から作業を始め、さらにトロッコ用の軌道をつくり、近くの国領川から川原石を集めてトロッコで運び、人力で石積みの観覧席をつくったのです」と話す。

 今も住友グループの各企業の社員は研修として、別子銅山記念館で歴史を学んだあと、当初の鉱山本部やまちの遺構が残る山の中を登山するという。登山道は冬の間は閉ざされ、春の点検で石積みが雪で崩れていると補修したりする。「最初に掘られた重要な坑口が一部崩れていた時は、大きく改変しないように昔の絵などを参照しながら2001年に補修しています」(神野館長)。

 ちなみに、新居浜市の小学生はふるさと学習で鉱山の歴史を学び、中学生になると旧別子山村を目指して登山するという。また、えんとつ山近くにある愛媛県立新居浜南高等学校では、ユネスコ部が別子銅山の近代化産業遺産をテーマに25年以上にわたって調査、研究を続けているという。教員現場でも企業城下町としての成り立ちを学ぶ取り組みが続いている。


劇場の跡。基礎となる擁壁が城壁のように積み上げられている(写真提供:別子銅山記念館)


採鉱課長の住宅跡の石積み(写真提供:別子銅山記念館)


測候所の跡地にも石積みが残る(写真提供:別子銅山記念館)

新居浜市役所で土岐さんに聞いたように、採鉱本部の拠点は大きく2回移転した。「鉱山は山の中で掘るので、最初は町づくりから始まります。動物たちが棲む狭い谷筋で斜面を切り開いて、事務所や採鉱場、製錬所、住居を建て、さらに学校、病院を建設して町ができていくのです」(神野館長)。まちづくりと同時に、産出した銅を山の中から運ぶための鉱山鉄道や道路なども徐々に整えられていった。

 秋山さんは、「当時の人たちは機械がないので何をするにも手づくりでした。今でいう日曜大工で手先も器用でした」という。自宅をつくるのに、山の中で崩れないように石垣を積み、修理も補強も自分でやる。「日常が作業です。そもそも山の中での採掘は暗闇の中を手作業で掘っていくので、手先が器用でないとできません」(秋山さん)。

それら住居や娯楽施設としての劇場の跡は山の中に現在も残っている。「まるでお城の城壁です」と秋山さん。山の中の石積みは、伊予の青石と呼ばれる「緑色片岩」が多く使われた。割れると板状になる石で、地元で多く産出されるものだ。

 これらの手作業が集結し、技術の粋を集めてつくられたのが山根グラウンドの観覧席というわけだ。まさに、別子銅山の歴史の中で300年かけて築き上げてきた、石積み文化の集大成だといえる。

意気込む我々に、秋山さんは、「石積みの観覧席をつくったというよりも、まずはグラウンドをつくることが目的だったのでしょう。観覧席は、グラウンドでの競技を楽しむ場所としてつくったのですね。木は腐るので、素材に石を選んだ。木であれば朽ち果てて、観覧席は現在まで残ってなかったかもしれません」と、感慨深げに話す。

 小学校にも線路跡にも観光地にも石積みが

山根グラウンドと国領川を挟んで200mほど西側にも、同じような石積みの観覧席があると聞き、さっそく市職員の人たちと現場に向かった。

新居浜市立角野小学校のグランドに面して、観覧席は学校の敷地外にそびえていた。山根グラウンドよりも規模は小さいが、同じように丸い川原石が積まれている。角野小学校の卒業生でもある新居浜市役所の庄野さんは、「運動会やお祭り集会として太鼓台が小学校のグラウンドに入る時など、観覧席として使われています」と話す。


新居浜市立角野小学校のグラウンドの奥にも石積みの観覧席があった(写真:白柳 洋俊)


草が生い茂っているが、山根グラウンドと同じような石積みだ。小学校の敷地外にありグラウンドとは柵で仕切られている(写真:大井 智子)

庄野さんは、「新居浜市では、深い山の中でも、多くの人でにぎわう観光地でも、本当に各地で石積みを目にします」という。現在は廃線となった旧別子鉱山鉄道の軌道にも石垣があり、採鉱本部の跡地を活用した観光地「マイントピア別子」にも多くの石積みが残っている。


マイントピア別子の端出場エリアにある旧端出場水力発電所に残る石積み(写真提供:新居浜市) 


マイントピア別子の東平エリアにある産業遺構。レンガの石積みの遺構は、東洋のマチュピチュと称される(写真提供:新居浜市)

「有名な近代化産業遺産にも多くの石積みが残っているので、今回の取材で山根グラウンドの観覧席がフォーカスされるとは、実は思っていませんでした」とはにかみながら打ち明ける。

幼いころの庄野さんにとって観覧席は、「当たり前のように存在する日常の遊び場でした。段々の石積みで鬼ごっこをしたり、散歩したり。グラウンドで野球の試合があれば、観覧席に座ってご飯を食べたりしました」と懐かしむ。

 角野小学校の観覧席を一緒に見学した新居浜市建設部都市計画課副課長の三並真由美さんは、「新居浜市は住友各企業によって町が発展してきました」とまちづくりについて話してくれた。

新居浜では、まず山の中に町ができてインフラが整備された。別子銅山の中心拠点が山を下りて本格的な港が整備されると、海岸沿いに商店街が栄え、さらに道路や鉄道が充実していく。「一般的なまちづくりでは鉄道駅を起点に整備されて発展するケースが多いですが、新居浜は違いました。居住地などの拠点をつなげていくクラスター型コンパクトシティのような整備手法は、今後の人口減少社会に向けたまちづくりの大きな参考になると思っています」(三並さん)。

 将来に向かって観覧席を継承していくためには、大きな課題もある。

庄野さんは、「石積みが崩れた時に直せるような石工職人が、いまはいないことです」と打ち明ける。普通の石積みであっても施工できる職人はほとんどいないという。材料も、同じような石を調達することは難しい。これまで石積みが大きく崩れたことはないが、何かで外れた石を見つけた時は保管しておき、一部、崩れたところに使うなど工夫している。

最後に庄野さんは、「市民にとっては親しみ深く、日常の生活に寄り添う大切な場所です。300年の石積み文化を伝える観覧席として、今後もできる限り維持していきたいと思っています」と力強く語ってくれた。


観覧席の全景(写真:白柳 洋俊)


夕方になると野球を楽しむ少年たちがグラウンドに集まってきた(写真:大井 智子)


散歩を楽しむ人や、犬を連れた人を多く見かけた(写真:大井 智子)


石積みには、隣接する国領川の川原石が使われた(写真:大井 智子)


階段の上に見えるのが大山積神社。太鼓祭りの時は群衆による自重がかかり過ぎないように神社境内の入場を規制するという。取材には愛媛大学の学生が協力してくれた(写真:大井 智子)

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