本州と九州を隔てる関門海峡に鉄道を通そうとする計画は、1911(明治44)年、鉄道院総裁・後藤新平がその調査を命じたことにさかのぼる。そして、橋梁案を廣井勇が、トンネル案を岡野昇、神保小虎、田邊朔郎が検討し、工事費も低廉で、国防上も有利な後者に決定した。
工事が具体化したのは、1935(昭和10)年6月、鉄道省に関門隧道技術委員会が設置されてからで、1936(昭和11)年7月には現場機関として鉄道省下関改良事務所が発足し、同年9月19日に小森江で起工式が行われ、世界最初の海底トンネルの工事が開始された。
トンネルの断面は、土被りや施工性を考慮して単線並列式とし、山岳工法を基本として、門司方の土被りの浅い区間で開削工法と潜函工法を用いたほか、風化の著しいマサ土の区間で圧気山岳工法と圧気シールド工法を採用した。シールド工法は、国内ですでに2例あったが、その結果は満足すべきものでなかったため、所長の釘宮磐は、対米関係が悪化するなかで、部下を帯同してアメリカの最新事情を視察し、万全を期した。そして、下り線の726m区間、上り線の405m区間をシールド工法で掘り抜き、実用化への道を拓いた。
工事は、戦時体制下にあって突貫工事で進められ、出水事故などを克服しながら1941(昭和16)年7月10日には下り線の本坑が貫通した。貫通式には、調査に携わった田邊朔郎も79歳の高齢を押して参列し、「きょうこそは 水底くぐる 洞道を 筑紫の国へあゆみ往くため」とその感慨を歌に詠んだ。そして、1942(昭和17)年11月15日に下り線(延長3614m)が、続いて1944(昭和19)年8月8日に上り線(延長3605m)が開業した。下関│門司間は、煤煙や勾配などを考慮して直流1500ボルトで電化され、塩害に強いステンレス製車体を用いたEF10形電気機関車が、颯爽とくぐり抜けた。
また、トンネルの開通を祝して記念歌が公募され、坂本正雄作詞、大久保徳二郎作曲による国民歌『海の底さえ汽車は行く』が選ばれたが、時局を反映して戦時色の濃い曲となった。関門トンネルの建設は、鉄道輸送にとっても国家の命運を賭けたプロジェクトだったのである。
ちなみに、戦後、日本に進駐してきた連合軍が、鉄道関係者に真っ先に尋ねた質問は、「関門トンネルは無事か?」であったと伝えられる。
関門トンネルで忘れてはならない災害に、1953(昭和28)年の水害がある。同年6月25日より降り出した雨は、28日朝には土砂降りとなり、市内の河川が氾濫して立坑や坑門から流下し、15時頃までにトンネル延長の68%に相当する約2500m区間が水没した。排水・排土作業は、7月1日より開始され、同19日に全線が復旧するに至った。この災害の教訓から、防水扉の設置、排水ポンプの強化などが実施された。
その後も、1967(昭和42)年から2年間かけて、輸送量の増大に対応するため、レールの60㎏化や特殊まくらぎの交換工事を実施し、軌道構造の強化が図られるなど、トンネルを維持するための保守管理が間断なく続けられ、現在に至っている。
関門トンネルは、関係者以外は立ち入ることができないため、列車でくぐり抜けるしかないが、彦島にある下関方の坑門付近には、上下線の間に工事の犠牲となった32柱の殉職碑があり、線路の外からも眺めることができる。また、弟子待(でしまち)と小森江には立坑の跡が残り、このうち試掘立坑は、保守管理用の施設として、今も用いられている。
(出典:海の底さえ汽車は行く―関門トンネル―,小野田 滋,土木学会誌92-3,2007,pp.70-71)
福岡県北九州市,山口県下関市