名称 | 竣工年 |
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児島湾干拓施設群(こじまわんかんたくしせつぐん) -丙川三連樋門(ひのえがわさんれんひもん) -大曲第一樋門(おおまがりだいいちひもん) -大曲第二樋門(おおまがりだいにひもん) -大曲第三樋門(おおまがりだいさんひもん) -奉還樋門(ほうかんひもん) -(旧)片崎樋門((きゅう)かたさきひもん) -高崎干拓堤防(たかさきかんたくていぼう) |
明治32年~37年 明治37年 明治35年頃 明治35年頃 明治35年頃 明治33年頃 明治33年頃 明治32年・明治33年 |
岡山県の瀬戸内海沿岸部は干満の差が大きく、また干潟が広く形成されており、干拓に適した条件が揃っていた。その干潟を順次開拓することによって農耕地の拡大が図られてきて、児島湾周辺では江戸期に大規模な干拓地が誕生した。
明治維新後、岡山県令・高崎五六は士族授産対策として大規模な児島湾干拓を政府に具申し、内務省のオランダ人技師ムルデルに意見を求めた。1881(明治14)年、実地調査をもとにムルデルが内務省に提出した「復命書」には、第1区から第8区まで約5200haの干拓が計画されていた。そして、高崎は、児島湾干拓は政府の事業として実施すべきとして、工事に必要な膨大な資金を国に要請したが、許可されなかった。
そこでやむなく、干拓は民間開発に転換され、長州出身の政商・藤田伝三郎が請け負うことになった。1889(明治22)年に藤田組への開発許可が下りたものの、用排水問題や漁業補償などで反対にあい延期を余儀なくされ、1899(明治32)年になってようやく着工された。ムルデルの計画をもとに実施設計を行ったのは、藤田組の顧問技師・笠井愛次郎で、1905(明治38)年に第1区が、1912(明治45)年までに第2区が竣工した。その後も第3・5区、第6区が藤田組によって、戦後には農林省の手によって第7区が干拓された。第4区と第8区は技術的・経済的理由により中止されている。
岡山は良質な花崗岩の産地であったため、江戸期には長尺に切り出した石材を組んだ石造樋門が伝統的に採用されてきた。しかし、明治に入ると西洋の近代技術が導入され、煉瓦を用いたアーチ形樋門が第1区に5基、第2区に11基登場した。大きく分けて2タイプがあり、一つは、樋管部分は煉瓦アーチだが、花崗岩を多用し、切石を積んで樋柱にした上に灯籠風の笠石を乗せた近代和風スタイルで、第1区や第2区の大曲地区に見られた。もう一つは、隅角部やアーチ表面には花崗岩を使用しているが、煉瓦を多用したタイプで、第2区を中心に採用された。なかには通船機能を備えた樋門や、用水が不足するため満潮時の2時間ほどに表層の淡水を取り入れるための回転板を設けた樋門もある。
なお、第3・5区以降の1935~1949(昭和10~24)年に完成した樋門は、樋柱の頂部が丸くなった表現主義タイプの鉄筋コンクリート樋門であった。
超軟弱地盤での築堤工事は困難を極めた。笠井は当初、土堤で干拓堤防を築こうとしたが、土を6、7割の高さまで盛った時点で、瞬く間に跡形もなく海中にのみ込まれてしまった。そこで藤田は農商務大輔や内務大臣を歴任した品川弥二郎に相談し、コンクリートの代用品として人造石(たたき)工法を開発した服部長七を紹介してもらった。
藤田は地盤の改良工事を行ったうえで、服部人造石工法を採用し、堤防を完成させた。しかし、児島湾干拓に関する各種の報告書には、服部長七の名前はおろか、人造石という言葉すら記載されていない。しかもすべてが笠井の功績によるもののような表現がなされている。その執筆者が笠井の関係者であったため、意図的に服部の名を出さないようにしたものかもしれない。学歴もない、職人あがりの「工事請負人」に対する大学出の技術者の意地でもあったのであろうか。唯一、明治32年1月に藤田が品川へ宛てた礼状に服部の名前が残されているのみである。
明治の児島湾干拓で築造された樋門は、築後100年以上が経過しているが、樋板の昇降を電動化するなど改修を加え約半数が今なお現役である。そのうち、煉瓦と石で構成される同干拓地最大の丙川三連樋門、通船機能も有していた2連の奉還樋門、岡山特産の花崗岩を多用した近代和風スタイルの大曲第1〜3樋門と旧・片崎樋門が推奨土木遺産に認定された。児島湾干拓地のなかでも、高崎地区(旧・灘崎町)では先人の遺業を後世に伝えるべく、積極的な顕彰活動が行われており、片崎・常川・宮川の3樋門が岡山県の重要文化財に指定された。
困難の末に築かれた干拓堤防であったが、その後、前面の児島湾がさらに干拓されたり、堤防に沿って国道30号線が建設されたため、往時の姿をしのぶことができる個所は少ない。建設当初の姿を保つ唯一の現役堤防である第1号高崎干拓堤防は、老朽化のためコンクリートに改修されたが、選奨土木遺産に選定されていたため、既存の石を再利用して表面に積み直すことによって、石堤防が延々と続く干拓地独特の景観が守られた。
諸元・形式:
「丙川三連樋門」
形式 煉瓦+石樋門(アーチ)
規模 径間3.6m +3.0m×2連
竣工 1904(明治37)年
「大曲第1~ 第3樋門」
形式 煉瓦+石樋門(アーチ)
規模 径間2.7m(第1、第2)、1.8m(第3)
竣工 1902(明治35)年
「奉還樋門」
形式 煉瓦+石樋門(アーチ)
規模 径間2.7m×2連
竣工 1900(明治33)年
「片崎樋門」
形式 煉瓦+石樋門(アーチ)
規模 径間1.8m
竣工 1900(明治33)年
「高崎干拓堤防」
形式 石堤防
規模 長さ約600m(第1号)、長さ約2km(第2号)
竣工 1899(明治32)年(第1号)/1900(明治33)年(第2号)
(出典:児島湾干拓施設群 ―知られざる真実―,樋口 輝久,土木学会誌92-11,2007,pp.58-59)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
岡山県岡山市南区、玉野市