現在私達が見ることができる大阪の中心部の橋梁景観は,1921(大正10)年から始まった大阪市第一次都市計画事業によってつくられたといっても過言ではない.この事業は,1919(大正8)年に策定された市区改正設計のうち緊急を要する街路の新設,拡幅などを実施する事業であった.以降およそ20年の間に150を越える橋が,耐震設計を取り入れた永久橋になるとともに都市景観を形成する確固たる位置を占めることになった.
この事業によって完成した旧淀川筋の橋を上流から見ていくと,雄大な3ヒンジアーチの桜宮橋(1930(昭和5)年,橋長188m),桁橋の曲線の美しさを追求した天満橋(1935(昭和10)年,橋長151m),中之島剣先の景観に彩りを添える軽快なアーチの天神橋(1934(昭和9)年,橋長211m),重厚な中に明るさを秘めたコンクリートアーチの淀屋橋・大江橋(1935(昭和10)年),今では見られないが華麗な装飾が施された肥後橋(1926(大正15)年)・渡辺橋(1927(昭和2)年),洗練されたデザインをもつ田蓑橋(1929(昭和4)年)があり,さらに下流へ行くと,ゲルバー桁橋の筑前橋,常安橋と玉江橋そして橋詰に石造りの飾台などが据えられたアーチ橋の堂島大橋(1927(昭和2)年)などが今も健在である.これらの橋はそれぞれの個性を主張しながら一連の統一ある景観をつくり出している.これらのうち特に重要な桜宮橋,天満橋,天神橋,大江橋,淀屋橋が平成12年度土木学会選奨土木遺産に選定された.
『大阪市第一次都市計画事業誌』にはこれらの橋の設計理念として「川筋に架せられた一連の橋梁群は夫々の架設地点に適合したものであると同時に,一連の橋梁群として変化と調和に富むものたらしめることが必要であった」と記されている.
当時の大阪市の橋づくりを指導していた堀威夫によると,橋の技術に関しては京都帝大・高橋逸夫,東京帝大・田中豊両教授の指導を受け,美観的な面では京都帝大建築の武田五一教授の指導のもとに橋梁技師と建築家の協同作業が成り立っていた.橋本体の設計と高欄や照明などのデザインが分業になっていたのであろうが,そのデザインコンセプトなどは十分な打ち合わせにもとづいて決められていたと考えられる.そして担当技術者の個性も尊重されたはずで,それが橋に変化と調和をもたらした要因であろう.
第一次都市計画事業による橋のデザインも時間の経過とともに変化した.初期のものでは肥後橋・渡辺橋,堂島大橋のように飾塔など橋を飾るための施設をもつものが多いが,1935(昭和10)年頃になると橋の構造を強調して極力装飾を省いたものが多くなる.これは堀威夫が理想とした「洗練された単純さ」をねらうという考え方が浸透してきたためであると思われる.
天満橋や天神橋はその代表的な作品である.当時大阪市の橋のデザインを担当していた元良勲は,天満橋(3径間ゲルバー桁橋)のねらいは桁の曲線にあるとし,「伸び伸びとした翼を拡げたような形」を強調している.天神橋は,当初鉄筋コンクリートで設計されていたが,地盤が思わしくないので鋼アーチに変更された.そして元良は「この方が軽快で結果は甚だ好かった」とする).中之島剣先を3つの軽快な2ヒンジ鋼アーチが跨ぐ姿は,水都大阪を代表する景観である.
桜宮橋のデザイン上の特徴は,当時日本最大のスパン104mにもなる雄大な3ヒンジアーチにある.架橋地点は船の航行が頻繁で,その妨げにならないように低水路を一跨ぎする必要があったが,巨大な上部工を支える下部工の施工技術は当時はまだ不十分で,変位の可能性があったことから,あえて静定構造が選ばれたものと考えられる.アーチ断面の太い桜宮橋の構造は力強さを感じさせるが,現代の感覚から言えば大変重たい印象を与えるものである.しかしそれはまさにその時代を象徴する形なのである.
またアーチのたもとにある橋頭堡とでもいうべきレンガ造りの塔もデザイン上の特徴である.中は公園へ降りる階段になっており,利用面でも橋の価値を高めている.
特筆すべきは,大江橋・淀屋橋の設計に際し,土木の分野では珍しいデザインの懸賞募集が1924(大正13)年に行われたことである.御堂筋の建設は第一次都市計画事業の中で最も重要な事業であった.その御堂筋に通じ,中之島の大阪市役所を挟んで架かる両橋の設計にあたって意匠面に最大の配慮が払われたのは当然である.意匠設計の条件は,両橋の幅員を20間(36.4m),橋長を各々45間(81.8m),30間(54.5m)とし,主構造は鉄筋コンクリートアーチとする.2橋は同一の形とし,付近の建築物や背景との調和を考え,両橋間の道路意匠も合わせて設計することであった.
1等に選ばれたのは大谷龍雄の作品で,南欧中世紀風と評されている.ちなみに賞金は千円という高額であった.大阪市ではこれを基に実施設計を行ったが,原案にあった橋脚上の塔は省略され,バルコニーがつけられている.その他入選作品の中にはユニークな提案も多く含まれており,そのアイデアが他の橋の設計に応用されたものもあった.このように変化に富んだアイデアが得られるデザインコンペは橋の設計にとっても有効な手法であることがわかる.
現在,これらの橋を取り巻く環境は大きく変わった.地盤沈下や地下鉄建設のためにやむなく架けかえられた橋もある.使用に耐えなくなった橋の更新は必要なこともあるが,できる限りその活用と保存が図られるべきである.玉江橋,天満橋,桜宮橋などの拡幅にあたっては旧橋を残して新橋のデザインをそれと調和するように工夫された.
由緒ある橋には橋の由来碑を設置するなど,橋を渡る人々に橋の歴史と重要性を理解してもらう努力も行われている.また,大阪の近代化の象徴でもある大江橋,淀屋橋が2008(平成20)年に重要文化財に指定された.重要幹線を支える現役の構造物の文化的価値が評価された意義は大きい.
両橋は地盤沈下の影響で,船の航行に支障があることも事実である.水上観光を促進するためには橋を架け換えるべしとの意見も聞かれる.しかし,そのために美しい優れた橋を壊すという主張は,「角を矯めて牛を殺す」に等しい議論であろう.
(出典:旧淀川の橋梁群(土木紀行),松村 博,土木学会誌86-4,2001-4,pp.56-57)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
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