
第112代土木学会・会長特別プロジェクト
「土木学会の風景を描くプロジェクト」ひろがるインフラWG、
起業家へのインタビュー第2回目は、
有限会社ハートビートプラン代表の泉英明氏に話を聞く。
十代なかばで中国貧乏旅行をするなど、行動的な泉氏は、
環境工学を学んでいた大学でまちづくりの魅力に目覚め
10年間の都市計画事務所勤務を経て独立。
起業の原動力となったのが、「計画で終わるまちづくり」への疑問であり、
主体的に変革したいとの思いだ。
「他者への関心」を武器に、まちを舞台に、
人々の営みを豊かにする数々のプロジェクトを手がけるようなった
泉英明氏のはたらく源泉に迫ってみた。
泉さんの「他者への関心」は、
その自由な環境で育った少年期に萌芽していると思った。
東京・練馬区で育ち、私立中高一貫校に進学した泉さんは、
校則がなく、先生の授業も教科書を使わないというユニークな環境で過ごす。
体育祭では実行委員として、先生と揉めながらも
生徒自身が競技内容を決めるなど、責任を持って物事を考える経験をした。
所属した物理部では「水切り」というマニアックな研究に没頭しつつも、
その傍らで、サッカー部やテニス部の練習に参加するなど多彩に活動。
中学3年生と高校1年生の端境期に当たる春休みに、1ヶ月間中国を旅行。
まだ貧しく社会主義色が濃かった時代、日本の常識が通用しない環境の中で、
人々との出会いや交流を通じて新たな価値観に触れた、とのこと。
道行く人に話しかけ、切符を買い、滞在先を探す日々は、まさに
未知の他者と関わりながら、自力で道を切り拓く経験の連続だったとのこと。
身の危険は感じなかったのかと聞くと、泉さんは
「先が見えないだけで、あまりそこは気にしてませんでした。
鉄砲の玉が飛んでくるっていうんだったら、ちょっと拙いですけど…」と語り、
その好奇心と行動力は10代にして、既に卓越していた。
親の影響について尋ねると、直接的な影響は薄そう、との返答だった。
ただ、泉さんの父は不器用ながらも決めたことをやり抜くタイプで、
特許担当の会社員から弁理士として独立を果たした人物だという。
自らその道を選び、10年間毎年試験に落ちながらも
最終的に独立に至った父の姿について、泉さんは
「ドが付くほど不器用やな、とか思ってはいたんですけど、
ま、ここまでやるのもすげえな、とは思ってました。
ちゃんと尊敬すべきやなっていうのは、なんか学んだところではあります」
と語る。こうした父の姿は、泉さんの独立心や困難に立ち向かう姿勢に
少なからぬ影響を与えたのだと感じた。


手塚治虫の漫画を通じて地球環境問題に興味を持った泉さんは、
環境工学を学ぶために、その学科がここにしかないという理由で
大阪大学に進学。
しかし、運命を大きく変えたのは、大学3年生の時に受けた都市再開発の講義。
非常勤講師として来ていた方の話が非常に面白く、レポート課題として
「どこかのまちに行ってまちの人から話を聞いてこい」
という宿題が転機となったとのことだった。
泉さんは、かねてから旅行で訪れ、雰囲気が好きだった金沢を選び、
行政やコンサルの人だけでなく、まちに暮らす人、うどん屋さんとかにも
積極的に話を聞き、彼らが嬉しそうにまちの自慢をするのを聞いたそう。
この経験を通じて、まちがどのように作られてきたのかについて、
受動的な理解から、自ら能動的に関わり、変えられる可能性がある
という新たな視点を得たとのこと。
この経験をきっかけに、都市計画やNGO、地球環境問題といった
将来の職業選択肢の中で、
「顔の見える仕事の方がなんか合ってるかもしれんな」と感じ、
地域に密着した都市計画の道を選んだ、とのこと。
卒業論文テーマも、泉さんの「他者への関心」と「自分ごと化」の象徴のようだ。
貧乏、風呂なしのアパートに住んでいた彼は、
毎日通っていた銭湯のコミュニケーションをテーマに選ぶ。
銭湯という目的性がない場所での「緩い繋がり」が、
人々の生活を豊かにしていることに着目し、常連客へのアンケート調査を実施。
この調査は、まさに彼自身がそのコミュニティに深く関わり、
「自分ごと」として銭湯の価値を探求した成果であった。
銭湯は「日本の文化」であり、「誰をも受け入れる」広場のような存在だ
という彼の視点は、後にライフワークとしてのめり込んでいく
公共空間への関心へと繋がっている、とも感じた。
大学卒業後、泉さんは恩師の事務所である環境整備センターに就職した。
しかし、そこで従来型の業務に疑問を抱くようになる。
都市計画は「マスタープランを作って提出したら終わり」という案件が多く、
計画が実行されることは稀だったという。
地域住民が望まない、外部が一方的に作った計画は街の人々の
「自分ごと」にならず、その結果、誰も動かない現実を目の当たりにした。
「こんなやり方では“ありがとう”と言われるはずがないし、
こんな業界に面白いやつが来るはずがないと思いますよね」と、
業界への強い不満と、それを「自分ごと」として変えたいという動機を抱いたのだ。
泉さんは2004年に独立し、「有限会社ハートビートプラン」を立ち上げる。
ここから、彼の「他者への関心」を核とした「自分ごと化」の実践が本格化する。独立直後は仕事がなかったものの、これが逆によかったと泉さんは振り返る。
その時間を使って、「頼まれ仕事と勝手にやってる仕事を繋げたい」と、
NPO活動や「ゲリラ活動」とも呼べるプロジェクトを次々と立ち上げる。

その代表例が、2003年に実施した「リバーカフェ」。
これは大阪の川沿いに水上カフェを設置する社会実験で、
河川法など全く知らなかった泉さんたちが、行政や地域住民と交渉し、
仲間とボランティアの協力を得ながら実現。
「どうしたらできるか」を自ら考え、行動することで道を切り拓いた事例である。
この経験を通じて、問題意識を持つ人々が協力しながら行動すれば
「物事はほんまに動く」という確信を得たそうだ。

高松での「マチラボ」の活動も同様。
強すぎる商店街とは別に、泉さんたちは市民サイドで面白い人々を集め、
中心市街地活性化の「オルタナティブなビジョン」を提案。
ここでも、異なる立場のキーマンたちが連携し、
「問題意識がある人が組んでやれば結構物事はほんまに動く」という学びを得る。




泉さんの活動は、これらのように自らの想いから始まるのが典型であるが、
その背景には恩師や先輩たちの存在も大きく影響しているそうだ。
例えば、都市大阪創生研究会の鳴海先生は、
大阪の若手企業家や行政職員を集め、
具体的な開発プロジェクトを通じて「実践」を学ぶ場を提供してくれたと言う。
ある時、先生は、グランフロント大阪の国際コンペで
地元連合の案が選ばれたことに怒り、若手メンバーと共に提案書を読み解き、
将来の都市デザインに活かす活動を行うなど、
「現状を変えようとする姿勢」を泉さんたちに示したとのこと。
こうした「機会を与えてもらった」経験も肥やしになったと振り返る。

現在、泉さんの事務所には多くのプロジェクトの依頼が来ているが、
事務所のキャパシティには限りがあるため全てを受けられないとのこと。
自身のノウハウや精神を受け継ぐ人材を育て、
「やり方をどう共有できるか」という新たな課題に直面しているそうだ。
この課題解決は、自身の「自分ごと化」の感覚を
組織や社会全体に広げていくという、次の「未来を拓く」挑戦だという。

ここでは、インタビューを通して聞き手が感じたことを、まとめ的に記す。
泉さんはインタビュー最後に「最終的に街づくりの成功っていうのは
関わった人が幸せになるってことですから」といって締めくくってくれた。
そこには、人の幸せも自分のことのように嬉しくなるような人間になれ、
というメッセージが含まれていて、そこに「自分ごと化」の真意があると思った。
彼はまた、今の若い世代が「自分の時間を大切にする」や「自分探し」に傾斜し、
他者や地域、公共への関心が薄い傾向にあることを心配する。
その結果として「感謝することに慣れてない」状態になりがちで、
他者の喜びを自分ごととして感じ取るセンサーが鈍っているのではないか、
と警鐘も鳴らした。
言うまでもなく、まちは人が集まって出来ているので、
日々の暮らしにおける良好な人間関係は幸せな日々の基盤でもある。
そのことを前提に、日々、他者に感謝しながら、
自身の個性を育てる事ができるまち、それを自分事として育てることができるまち、
それを一つの理想と捉えることも出来ると思う。
彼が起業した10年前は、
そういったビジョンやプロセスが用意されているわけではなかった。
故に、それを実現すべく、泉さんは起業したのだと思う。
インタビューでも、独立したいと思って起業したわけではなく、
成り行きで起業したという方が近いとも仰っていた。
主体的にやるには、起業する他なかったというのが本当で、
その背景には、幼少期から培ってきた強靱な行動力、
青年期に地球環境問題に目覚めたような誠実に社会に向き合う気持ち、
等が原動力(源泉)になったのだろうと思われる。
事実、起業後はしばらく仕事がなく、時間だけがあったとも仰っていた。
そして、「暇でないと妄想しませんからね」とも。
妄想という名の構想とその試行錯誤に時間を使ったということだけど、
それが、その後の泉さんの活動を飛躍させたことは、
インタビューを通しても伝わってきたし、それをやってのける彼は、
やはり、並みの胆力ではないことも再認識した。
誰もが出来ることではないと思う。
一方、こうして、どこからか、このような人が登場する日本は、
豊かで幸せな国だとも思う。
こうした点は、ここで論じるものではないが、
何世代にも繋がるようにしていきたいものだ、とだけ記しておく。
泉さんの人生とキャリアは、「他者への関心」を核に、自ら課題を設定し、
行動し、周囲を巻き込みながら、あるいは巻きこまれながら進んできたように思う。
「自分ごと化」を深めていくことで、
まちの未来を、そして自身の未来を切り拓いてきた物語でもあったのだとも思う。
ここまでの話が、多くの人にとって、
自身の「やりがい」や「貢献」を見つける上でのヒントとなることを祈念したい。
最後まで、読んでいただき感謝します。
インタビュー+文責 松井 幹雄 (大日本ダイヤコンサルタント株式会社)