新千歳空港から車で30分、操業当初は東洋一、現在は世界最大の新聞用紙生産工場の電力供給を担う発電所が100周年を迎えた。企業の生命線ゆえ、立ち入りは落差130mの放水路上部に限定されるが、深山幽谷にひっそり息づく発電所には自然の恵みと人の英知を活かしたスケールの大きな産業システム開発の物語がある。
文明開化による国民の知識欲の高まりを受け、明治前半には、いわゆる御用新聞や民権派新聞が続々発刊された。当時の新聞用紙は、ぼろ布や稲わらを原料とするか輸入紙に依存していた。明治中期(1890年代)には木材原料のパルプ生産が可能となり、新聞用紙も増産された。その後、日清戦争(1894~1895年)、日露戦争(1904~1905年)への関心の高まりにより、新聞発行部数は飛躍的に増加した。一方、新聞用紙生産は製紙原料の枯渇や主要工場の水害などによる苦難の時代にあり、輸入紙に頼らない大量の用紙生産が重大な課題だった。
大規模な製紙工場には、平坦で広大な用地、清く大量の水、電力などの動力、原料の木材調達、製品流通に有利な輸送が不可欠だった。1904(明治37)年9月、当時の王子製紙専務鈴木梅四郎は、永続的な会社百年の体系を確立すべく、吉川三次郎(先年横川─軽井沢間のアプト式鉄道建設に貢献)らの技師とともに工場と水系の総合開発が可能な地を求め、北海道各地を調査した。その結果、支笏湖の安定した水と落差のある千歳川が水力電力開発に適し、原料となるエゾ松などの原始林、水と輸送(室蘭本線は1892年開業)を確保可能な苫小牧に建設用地を確保した。1907年5月に水力発電所、翌年苫小牧工場の工事に着手し、1909年12月までに落成した。そして、1910(明治43)年5月、産業用水力発電所では国内最初となる発電を開始した(工場操業開始は9月)。工場は発電所から25㎞、送電可能距離が30㎞の当時、送電も最新技術だった。
第1発電所は上流から順に、堰堤、水路、水溜、放水路、発電所で構成される。
堰堤は支笏湖口の下流約1㎞、全長48m、6連の堰堤と放水口、引入口からなり、重力式構造であるが硬切石積のバットレス状のピアが力強さを感じさせる。工事概要には「支笏湖なる自然の貯水池をなすを以て、大降雨の時と雖他の河川に見る如き濁流奔騰する如き洪水を来すことなく、只漸時に少しづつ増水をなすのみ」とあり、安定した水量により当初予定の仮設の堰を設けずに、簡易な土俵で締め切れたことを「非常の幸福」と記している。取水した水は、堰堤右岸から4.3㎞、勾配1/500の水路(隧道と管路)で標高を保ちつつ水溜に現れる。
水溜は側壁にれんがを、頂部や角部には石材を積んでいる。放水路に分水する五つのピア先端部は、おのおの異なる角度としているほか、水面からわずかに高い溢流堤も水量調整の巧みを凝らしている。いずれも清冽な水流との対比が美しい。しかし、落葉の時期には夜中でも"カッチャ"という長い熊手で放水路上部に溜まる葉をすくい取るという。
放水路の送水管は当初4本、1930年までに6本となり、その後交換された4本が存在する。中間で変化する傾斜が立体感を高めている。眼下のれんが造の発電所が灰色に見えるのは、第2次大戦時にカムフラージュ塗装した名残である。内部では米国製発電機2基が初期から稼働し続けている。支笏湖の上澄みから得た清流は、発電用水車の永続性にも貢献しているという。
静かな谷に唯一響く発電機の唸りは、建設から現在まで施設にかかわった人たちの歴史と価値を引き継ぐ、誇り高き響きでもある。
諸元・形式:
堰堤 基礎構造:コンクリートとれんが 堤体内部:軟石 堤体周囲:硬切石/延長48.2m
水路 延長約4.3km(うち約3.5kmは内径2.9mの鉄筋コンクリート製水路管)
水溜 基礎構造:粘土敷上に軟粗石を敷き、その上部にコンクリート充填 側壁:れんが積みと切石/放水口5門/溢流堤長20m
放水路 斜面距離365m/落差130m
出力 当初10000kW(2500kW×4基形式)
設計者 王子製紙(株)土木部顧問技師 吉川三次郎
竣工 1910年5月28日(発電開始)
(出典:見どころ土木遺産 第73回 王子製紙(株)千歳川第1発電所 ―森・水・人による発電システム―,石川 成明,土木学会誌95-8,2010,pp.36-37)
北海道千歳市