日本三景として名高い松島海岸の北方、ちょうど松島丘陵を越えたあたりに、東北本線の品井沼(しないぬま)駅がある。この駅の北西にのびる広大な水田地帯に、かつて摩周湖に匹敵する面積をもつ巨大な沼が広がっていた。いまはその姿をとどめないこの沼こそ、駅名の由来となっている品井沼である。
古来、品井沼一帯は、三方を山と丘陵に囲まれた非常に水はけの悪い沼地であった。増水期になると、鳴瀬川の水が品井沼へと逆流し、周辺住民はしばしば洪水の危険にさらされた。
最初にこの沼地の干拓に乗り出したのは、当時、米作を産業の中心としていた仙台藩である。仙台藩は、江戸の人口急増による米需要の高まりを背景として、独自の買米制度により新田開発を進め、生産された米を江戸へ回送して藩財政を潤していた。
1693(元禄6)年、仙台藩直営による干拓事業が始まった。品井沼の排水路として松島湾に通ずる疏水を開削し、一帯の低湿地を干拓して新田を開く大事業である。この事業の要となったのが、疏水が松島丘陵を潜るための隧道、すなわち元禄潜穴(げんろくせんけつ)の掘削である。
元禄潜穴の掘削は、まず、ずり出し穴と呼ばれる10個所の竪坑を掘り、そこから両側へと隧道を掘り進めるかたちで行われた。すべて人力による掘削であったことを思えば、その苦難は計り知れないものがある。1698(元禄11)年、2条の隧道からなる元禄潜穴が竣工し、これにより617町歩に及ぶ新田が開かれた。しかし、元禄潜穴の掘削後も依然として、降雨期になると品井沼沿岸は、しばしば洪水の被害に見舞われた。
ようやく明治に入り、品井沼の抜本的な洪水対策と、より大規模な干拓事業が行われることになる。1882(明治15)年、当時の宮城県令松平正直の依頼で、内務省のお雇い技師オランダ人ファン・ドールンにより、品井沼の新排水路掘削に向けた実測調査が行われた。ところが、その調査報告は、品井沼の水を完全に排水するためには12条の隧道掘削が必要で、その工事費は、干拓により開かれる耕地の利益総額を大きく上回るというものであった。つまり、新排水路の開削は断念せざるを得なかったのである。
しかし、品井沼沿岸の住民は諦めなかった。1889(明治22)年、品井沼周辺の3郡5村は品井沼沿村組合を設立し、品井沼の排水施設の建設に共同で取り組むこととした。幾多の紆余曲折を経て、1906(明治39)年、まず鳴瀬川からの逆流を防止するための閘門(こうもん)を設置し、さらに翌年、新排水路として、3条の隧道からなる明治潜穴の掘削に着手した。潜穴南部の岩質が軟弱であったため、落盤や水害による崩落が相次いだが、隧道の一部区間をレンガ巻立構造に変更するなどの工夫を重ね、ついに1910(明治43)年12月、明治潜穴が竣工した。これにより、1300町歩の耕地が開かれ、さらに水害除去地は840町歩に及んだ。
大正に入ると、宮城県や内務省直轄による本格的な吉田川の治水事業が始まった。鳴瀬川の逆流を防ぐため、まず吉田川を品井沼から分離し、さらに背割堤の築堤により、吉田川と鳴瀬川の流れを河口付近まで分離した。また、品井沼に流入していた河川を鶴田川に集め、さらに吉田川河床の下に設置した7連のRCボックスを通して鶴田川を吉田川と立体交差させ(吉田川サイフォン)、明治潜穴へと通ずる高城川に流入させた。こうして、江戸以来の品井沼をめぐる一大土木事業が、一つの区切りを見たのである。
潜穴、サイフォン、背割堤、これらの耳慣れない一連の干拓関連施設群は、あまたの困難を乗り越えてきた人びとのまさに知恵と工夫の結晶、勇気と努力の証である。いまに受け継がれる広大な水田地帯を開いた品井沼干拓関連施設は、世紀を超えた土木遺産として高く評価されよう。
諸元・形式:
「元禄潜穴」
形式 素掘り隧道2条
規模 長さ1418間(約2578m)/幅3.6m/高さ2.4m
着工 1693(元禄6)年
竣工 1698(元禄11)年
「明治潜穴」
形式 素掘り・レンガ造隧道3条
規模 長さ1309m/幅6m/高さ4m
着工 1907(明治40)年
竣工 1910(明治43)年
「吉田川サイフォン」
形式 7連RCボックス
規模 管体長103.8m/幅2.6m/高さ3.0m
着工 1933(昭和8)年
竣工 1934(昭和9)年
「鳴瀬川吉田川背割堤」
着工 1925(大正14)年
竣工 1941(昭和16)年
(出典:見どころ土木遺産 第56回 品井沼干拓関連施設,阿部 貴弘,土木学会誌94-3,2009,pp.36-37)
宮城県松島町