1923(大正13)年、多布施川を渡る公園のアプローチとして栴檀(せんだん)橋は架けられた。それは、「神野(こうの)のお茶屋」と親しまれてきた佐賀藩別邸が、佐賀市に寄付され「神野公園」として市民に開放された翌年であった。橋長16.8m、幅員5m、6スパンの石桁橋。橋脚はそれぞれ4本の石柱で構成され、水切りのため、流れに角が向けられている。計20本の石柱は、深い陰影によって、印象は繊細で華奢、それらが清らかな流れのなかに林立する姿は、河岸の豊かな木々がつくる風景によく溶けこんでいる。橋の名は、河岸に多く生えていた栴檀の木に由来するらしく、この川と橋は母子のようなものかもしれない。まさに母が子を抱くように、栴檀橋という繊細な細工物を、多布施川が優しく包み込んでいる。
優しさの根っこには強さがある。多布施川の穏やかさにも、しっかりとした根っこがある。それが、栴檀橋のおよそ5㎞上流の嘉瀬川との分流施設、石井樋である。現在は、丁寧な調査と深い考察に基づいた復元が行われ、質の高い公園として整備されている。そもそも多布施川は嘉瀬川の本流であったともいわれるが、約400年前の元和年間(1615〜1623)、多布施川の水量を調節し、水質を上げ、城下の飲料水や灌漑用水を確保するために、佐賀藩の成富兵庫茂安が建設したものが石井樋である。その仕組みは精巧を極め、さまざまな施設によって、丁寧に、そして粘り強く、荒れる水をなだめていく。この強さとも優しさともとれる仕組みによって、多布施川の穏やかさが実現され、栴檀橋も守られているのである。
母の優しさと強さを多布施川に感じるとすれば、「神野のお茶屋」には、父の熱さや楽しさといったものを感じられないだろうか。幕末の佐賀は、江藤新平や大隈重信などの優れた人材を数多く輩出したが、その基礎を築いたのは佐賀藩第10代藩主の鍋島直正である。直正は藩政改革に邁進し、「そろばん大名」と揶揄されるほど自らも質素倹約に努めた。そんな彼が、十数個所あった別邸を一個所に集約し、1846(弘化3年に建設したのが「神野のお茶屋」である。多布施川の水を引き入れた庭園は、京都の風景を模したものであった。直正はここで、重臣や若手とたびたび会合をもったらしい。幕末という熱い時代、京の風景を眺めながらどんな議論をしていたのか。遊興や贅沢から、革命への情熱へ。そんな思いをこのお茶屋で育んでいったのではないだろうか。
さて、栴檀橋である。母と父が子に託した思いとは何か。近代化の大切な意義の一つは、市民一人ひとりが、充実した生活を自由に送ることができるということだと思う。ならば、お茶屋が公園として開放されたということは、近代化という動きにおいて、まさに象徴的な出来事である。この橋はいわば、近代化の末子として生まれたのである。栴檀橋建設に関して、史料があまり残っておらず、設計者も施工者も不明である。しかし、偉人の業績ではなく市民の橋として、それはむしろ、ふさわしいことであろう。近世から近代への最後の子として生まれたこの橋も、いまや車を支える力はなくなった。ただ、これからも20本の柱が力を寄せ合い、公園に立ち寄る市民を支え続けていくだろう。その風景は決して派手ではないが、かけがえのないものなのである。
(出典:栴檀橋―風景にとけこむ市民の橋―,星野 裕司,土木学会誌92-4,2007,pp.58-59)
佐賀県佐賀市