「あゝ、空中飛行艇々々、この驚くべき感嘆すべき空中飛行艇は、今や、遠からず、天界萬里の空に大雄飛を試むることが出来るのである。」
可惜夭折した明治の冒険小説家、押川春浪(1876〜1914)の代表作「空中大飛行艇」(1902)のくだりである。第二次世界大戦以前には、偵察用の水上飛行機が軍艦に搭載されており、海軍士官たちには「下駄ばき機」とも呼ばれていた。香川県詫間町(現三豊市詫間)に1943年に開隊した詫間海軍航空隊はこの水上機の訓練教育を行う部隊として編成されていた。
飛行艇は滑走路などの大規模な飛行場設備を必要とせず、また長距離飛行においても着水による不時着が可能であるなどさまざまなメリットをもつ。1930年代には欧米を中心に旅客飛行艇が採用されたが、やがて世界各国の海軍にも着目され、第二次世界大戦にも多数使用されている。
世界を代表する閉鎖性海域である瀬戸内海は、穏やかな海水面をもち、〝水上飛行場〞に最適の地であったといえる。実際、1920年代よりわが国において先導的に旅客飛行艇の営業運航が行われているほか、近年まで宇高航路には静水面を高速航行できるホーバークラフト(1972〜1988)なども導入されていた。このような瀬戸内海にあって詫間湾はさらに北と西に岬をもち、前方には粟島を控え風波をも避けられるという有利な地形をもつ。この理想的な天然の良港に対し、明治30年頃に当時の県会議員、西山彰氏らが「詫間築港期成同盟会」を組織し、陸海軍両省の後援を得てその達成を目指した。残念ながらこれは不況のため沙汰止みとなったが、その後陸海軍の要港として位置づけられる大きな契機となったことは想像に難くない。1941年には呉海軍第十一航空廠の航空基地として2年間にわたる大工事の末整備されている。
水上機の進水を目的とした〝滑走台〞(スリップ)は1943年に竣功し、大艇用3基と小艇用1基が現存している。潜水夫によって海底に割石基礎が築かれ、その上にコンクリート盤が4.5度の勾配をもって施工されている。側面は花崗岩間知石が施され、西端の滑走台には軌道も取り付けられているが、東端は水平に改修され荷揚げ場となっている。
旧日本海軍の滑走台は愛知県美浜町、茨城県阿見町、千葉県館山市のほか、台湾・屏東縣の大鵬灣など外地にも現存している。これらとの関連については今後の調査研究にてさらに明らかになるものと期待したい。
当地は神風特攻隊出陣の地としても知られ、航空隊基地跡の碑石整備(2000年)などこの地の歴史を真摯に見つめ直す動きが近年活発である。そして2006年には選奨土木遺産というもう一つの観点からこの地を再考する動きがあった。施設整備を可能とした自然地理的条件と、呉軍港への近接性という社会的背景からその成立の系譜を客観的にとらえ直すことの意義も大きい。このことは、国防遺産や軍事遺産に対するもう一つのアプローチが可能であることを示唆している。
飛行艇の台頭は、未来を構想する明治の文人の心をも確かにとらえていた。富国強兵という厳格なイデオロギーの遺産に対して、滑走台越しに眺める瀬戸内の穏やかな波間の風景は悲しいまでに明快なコントラストを形成している。敵地に散っていった同胞たちへのこのレクイエムは、新しき日本の構築に邁進したひたむきな土木エンジニアたちへの賛歌とはなり得ないであろうか。
(出典:詫間海軍航空隊滑走台,岡田 昌彰,土木学会誌92-6,2007,pp.74-75)
香川県三豊市詫間