「立山(たちやま)の 雪し消(く)らしも 延槻(はひつき)の 川の渡瀬(わたりぜ) 鐙(あぶみ)浸(つ)かすも」
越中の国守大伴家持が748(天平20)年に詠んだ歌である(万葉集巻第17)。万葉の昔「はひつき」と呼ばれた早月川。北アルプスの名峰剱岳に源を発し、27㎞の流路を平均5%の急勾配で駆け下り富山湾へとなだれ込む。見事な扇状地、発達した河岸段丘、多くの霞堤など地理の教材に格好の川である。河口近くの大きな石がこの川の暴れ川ぶりを物語るように、古来、春の融雪、夏秋の大雨により氾濫をくり返してきた。
1891(明治24)年7月の豪雨で大水害が起きた。翌月、内務省から派遣されてきたヨハネス・デ・レーケは、早月川を調査し、堤防は土砂でできているため漏水しやすく、築造が不十分で強度が不足していることを指摘した。この後行われた復旧工事により「石堤」が築かれた。
1895(明治28)年8月の洪水で左岸大浦地区の石堤が破壊され、多くの家屋田畑が流失、被害は惨状を極めた。翌年国庫補助を受けて富山県による復旧工事が行われ、堅固な堤防「五厘堤」が完成した。
この堤防は、河原から直径1m近くの石をトロッコで運び、約200mにわたって高さ3~5m、上部の幅約7mに積み重ねて築いたものである。川側の勾配がほとんど垂直に近いことが大きな特徴となっている。堤防などの勾配は、たとえば高さ1に対し底部の水平長が2の場合、「2割勾配」と表す。五厘堤の勾配は1対0.05であることからこう呼ばれるようになったもので、これほど急傾斜の石堤は全国的にも珍しく、同じ早月川でもこの個所だけである。
五厘堤の対岸のやや上流側は水尾山がせり出し岩壁となっている。上流からの洪水はこの岩壁にぶつかりはね返され五厘堤のほうへまっすぐ向かってくるため、この地点で堤防が切れると西北の市街地が水害に見舞われることになる。この大浦地区には堅固な堤防が不可欠なのである。
川側の面を五厘という急傾斜にしたのは洪水対策のためであろうが、記録が残されておらずその設計意図は不明である。浅地剛成氏(富山県土木部)は、その理由として、第一に土石を含む洪水流に接する面積を小さくして破壊の危険度を小さくすること、第二に洪水が越堤するのを防いで破堤の危険度を小さくすることを狙ってのものであろうと推測している。
さらに五厘堤の前面は水制を施して洪水の勢いを和らげ、五厘堤の下流側を低くして洪水を越流・遊水させるとともに背面に堤防を配置するなど、二重三重の構えで水害を防いでいる。
五厘堤はデ・レーケが設計したものであると伝えられているが、確たる証拠はない。当時の富山県の土木担当課長高田雪太郎がデ・レーケの指導により設計したとも考えられるが、むろん推測の域を出ない。
五厘堤は築堤から110年余り、ほぼ当時の姿のままで現在も滑川市街地を水害から守っている。
積み重ねられた一つひとつの石は北アルプスの山々から運ばれてきたものである。石の丸みに気の遠くなるほどの永い時間を感じる。この石堤の表情は武骨だが、素朴でなつかしくも温かいものがある。河原から石を運び積み上げた明治の石工たちのように。五厘の勾配で洪水に立ち向かう気迫を秘めながら、堤防は風景にとけ込む、というより風景をなしている。
(出典:五厘堤―早月川の激流に抗して―,白井 芳樹,土木学会誌92-9,2007,pp.74-75)
富山県滑川市