1890(明治23)年2月25日、利根川と江戸川を結ぶ利根運河が通水した。丘陵台地を開削して建設された開水路型式の運河のなかで国内最長の内陸運河である。全長約8.5㎞、総事業費約57万円、工事従業者は累計200万人強を数え、下総台地が開削された。明治期の一大河川開発プロジェクト、それも民間会社が施工・管理する有料運河である。
利根運河の建設計画に登場する主要な人物は、茨城県会の廣瀬誠一郎、茨城県令の人見寧(やすし)、オランダ人御雇工程師のデ・レーケ(Johannisi de Rijeke)そしてムルデル(Anthonie Thomas Rouwenhorst Mulder)である。1882(明治15)年、内陸航路の整備を説く廣瀬と人見は、関宿回りの既存の利根川―江戸川航路に対し、野田―流山間を結ぶ新設運河が航路短縮になると内務省に建議し、内務省はこれを受けて同年にデ・レーケ、1885年にはムルデルに運河調査を命じ、利根運河はここに官営事業として着工されることになった。ところが翌1886(明治19)年、内務省は財政上の理由から、利根運河建設を白紙に戻した。そこで廣瀬は、人見などとともに利根運河会社を設立して、運河建設を進めることにし、1888(明治21)年、運河建設が着工した。このとき、工事監督を務めたのがムルデルである。
運河の構造は、沖積地が築堤河道、台地部が掘込み河道で、利根川流頭部には水堰が設けられ、水堰は洪水の都度、閉鎖された。運河の開通によって、利根川―江戸川航路は40㎞短縮された。通航船は毎年3万艘強を記録して,沿川は賑わった。利根運河という一大動脈がここに確立したのである。しかし、その一方で鉄道整備は関東一円に進展した。この結果、通船数は1914(大正3)年を境に2万艘を割り、以降、激減していくのである。
1941(昭和16)年7月22日、利根川は大出水して運河流頭の左岸堤と水堰を破壊し、洪水流が一気に運河へと流れ込んだ。この洪水の流入によって、利根運河は再起不能なまでに壊滅的被害を受け、ここに利根運河会社は終焉して、運河は国有化され、内務省(現・国土交通省)の管理となった。
戦後、利根運河は、1975(昭和50)年に野田緊急暫定導水路と位置づけられ、北千葉導水路が完成するまで、利根川の平水毎秒10㎥を江戸川へと注水し、また利根川の洪水毎秒500㎥を江戸川へと放流する役割を担うことになった。流況調整河川の先駆けである。そして北千葉導水路の完成に伴い、2000(平成12)年、利根運河は、利根川の洪水を江戸川へと放流する放水路としての役割に特化することになった。ただし、放水路といえども、利根川の平水が時々、運河に注水され、また右岸側の農業用水の残水や家庭雑排水が運河へと流入するので、運河それ自体は一年を通して空堀になることがない。
利根運河は、このように明治、大正、昭和、平成と数奇な歴史をたどり、結果的には運河の役割を喪失したけれども、現在は放水路としての役割を担うとともに、かつて川が流れることもなかった下総台地に貴重な水面空間を創出した。利根運河の再評価の時期が今、到来したのである。
(出典:利根運河―丘陵台地に建設された開水路型式の運河のなかで最長の内陸運河―,岩屋 隆夫,土木学会誌92-10,2007,pp.76-77)
千葉県流山市,柏市,野田市