六合(くに)村は、群馬県の最北西部にあって、長野県・新潟県と2000m級の山々で境を接する人口2000人足らずの山村である。隣接する草津町は日本屈指の温泉保養地であるが、六合村にもひなびた温泉がいくつかあり、なかでも尻焼温泉では川の中にも温泉が涌き出している。国道405号を北上すると、標高1514m、周囲12kmの野反湖(のぞりこ)畔に達する。魚野川をせき止めたダム湖で、周囲は高山植物の宝庫である。
村名の由来であるが、明治33年、6つの大字が合わさって一つの村になったので「六合」と名付けられた。これを「くに」と読むのは、日本書紀における神武天皇即位元年の記述によったものという。
この六合村の小雨地区で国道292号に合流する主要地方道、中之条草津線が白砂川を渡るところに吾嬬橋(あづまばし)がある。1977(昭和52)年に完成した鋼方杖ラーメン構造の朱色の橋である。この橋の開通で旧道と化した道はそのまま村道として残されたので、新橋からはるか下に見下ろすところに、本題の旧吾嬬橋が架かっている。この橋のところに行くには、国道沿いの役場の近くから白砂川渓谷に向かって下って行く。およそ30mくらい下ったところで、渓谷を直角に渡るように古典的なトラス桁が架かっている。渡り終えると道は再び急坂を曲がりながら登って生須の集落に達し、吾嬬橋の左岸に合流する。交通量は少なく、たまに地元の人の車が通るだけである。
この村道橋の吾嬬橋は、1961(昭和36)年に県道の橋として竣工している。1977(昭和52)年に、県道の橋としての役目が終わったが、撤去されることなく、その後は村道の橋として使用されることになり現在に至っている。その古典的な姿から想像がつくように、新しく製作したトラス桁ではなく、利根川に架かる坂東橋から撤去された三連のうちの一連を移設したものなのである。坂東橋は、1901(明治34)年に架設された国道の橋(現・国道17号、渋川市)であり、ピン結合のトラス桁三連が煉瓦造の橋台、橋脚に支えられていた。単線の軌道が路面上流側に敷設されていて、東武鉄道伊香保軌道線前橋線の電車が運転されていた。新しい橋が建設されたので、旧橋は撤去されたが、桁は二連が利根川に架かる敷島橋(現・渋川市、旧・赤城村〜旧・子持村間)に、一連が吾嬬橋に転用されたのである。敷島橋の二連はすでになく、吾嬬橋の一連が唯一現存している。
吾嬬橋のトラス桁本体は、坂東橋時代のまま引き継がれており、床版を狭くして一車線にしてあるほかはよく原形をとどめている。明治時代に建設されたトラス橋は日本中探しても数えるほどしか残っておらず、しかも支間長約68mというのは明治時代の道路トラス桁としては最大級であるので、橋梁技術史上貴重な遺産をよくぞ残してくれたと思う。またその構造は、典型的なアメリカ式のピン結合トラスであり、桁の背が高く、部材は総じて細く、遠目には針金細工のように見える。下弦材と斜材の引張り部材にはアイバーと呼ばれる、両端にピンを通す穴(目)をもつ帯鋼を使用しているのが特徴である。一方、上弦材と垂直材などの圧縮部材や左右のトラスを結ぶ部材などは、山形鋼、板、綾材をリベットで組んだ集成材であり、力学的にはきわめて明快であると同時に、とても繊細に見える。
静かな白砂川の峡谷で、周りの風景に溶け込み、百歳を超えて余生を過ごす幸運な、飾り気のない素朴なトラスと一人向き合うのも悪くないと思う。
諸元・形式:
形式 鋼方杖ラーメン構造/(桁形式)下路曲弦分格プラット・トラス(ペンシルヴァニア(ペティット)トラス)
規模 橋長69.1m/路面幅員3.0m/支間推定67.9m/14パネル
竣工 1901(明治34)年(坂東橋竣工)/1961(昭和36)年(移設)
元架設橋梁 坂東橋(国道17号、利根川)
(出典:吾嬬橋 白砂川渓谷にひっそりとたたずむ百歳を越える橋,小西 純一,土木学会誌93-4,2008,pp.52-53)
群馬県吾妻郡六合村(村道小雨生須線 白砂川)