1924(大正13)年に完成した名栗川橋は、荒川水系の支流入間川(旧名栗川)に架かる、1径間の鉄筋コンクリート上路アーチ橋である。橋の上・下流から望むと名栗峡谷が背景となり、その景観が素晴らしい。橋は埼玉県飯能市(旧名栗村)の下名栗地先にあり、東京湾の荒川河口から流路をたどると、約81キロの渓谷の中にある。幅3.90m、長さ32.3mで、現在も軽車両などの交通に供している(交通規制:車両幅2.2m、同重量2.0t)。
この橋梁形式は、県下で玉川橋(当時玉川村)に次ぎ二番目であるが、玉川橋より高欄が重厚で安定感を有している。また、拱台(アーチ部分)から立ち上がる支柱の接続部は、断面を増加させて固定を強化している。近年、床版など一部にコンクリートの剥離などが発生し補修がなされたが、大規模な損傷はない。
1920(大正9)年4月7日、旅と酒を愛する歌人若山牧水は、秩父から山を越えて名栗川の渓谷を下った。ここで数首詠まれたなかに次の歌がある。
「仮橋の ひたひた水に ひたりたる 板の橋わたり 梅のはな見つ」
この日、下名栗地先の鉱泉宿に泊まる。この様子を次のように詠んでいる。
「わかし湯の ラヂウムの湯は こちたくも よごれてぬるし 窓に梅咲き」
この谷間のひなびた鉱泉宿は、現在5階建ての大松閣であり、名栗川橋を右岸に渡って300mほど奥にある。当時、この鉱泉への往来は木橋の大喜橋を渡った。牧水が訪れたときは、大喜橋が1910(明治43)年の大洪水で被災して仮橋であった。はじめの歌は、牧水が街道から水辺におりて狭い急づくりの仮橋を渡り、宿を見上げて目にした梅を詠んだ歌と思われる。
1910(明治43)年8月初旬の洪水で破壊した大喜橋は、復旧に際して地元民は木橋ではなく、堅固で流失しない永久橋の架設を強く望んだ。永久橋は莫大な工事費を必要とし、県の補助金を得て村が発注する工事費は総工事費の約6割であった。このため、地元有志は寄付金を募るほか、寄付金の提供困難者は無償の工事作業員として施工に参加した。工事は1924(大正13)年4月、位置を大喜橋より上流に移して着工し、同年9月21日完成した。このとき、橋名は名栗川橋となった。
1929(昭和4)年、歌人与謝野晶子がラジウム鉱泉を訪れ、「名栗の峡谷は、渓は細かいが女性的に優しく、(略)折々出偶ふ石欄の小橋や沿道の農家の茅屋根の趣きと共に、車上の人を倦ましめない」と述べている。晶子の眼は、新しい名栗川橋も印象に残したのだろうか。たしかに名栗の峡谷は、岩肌をみせる崖など男性的な風景がなく、山が豊かな森林で埋めつくされている。これらのスギ・ヒノキは西川材と呼称され、良質な建築材として江戸のまちづくりや大火の復興に寄与した。
名栗村の住民は、江戸との流通によって首都の情報に通じていた。河口から約81㎞さかのぼった名栗渓谷に、近代的な永久橋を建設した背景には、村の有志がもっていた進取の気概と、後世の発展を望む夢があったからであろう。
(出典:名栗川橋―構成への夢の懸け橋―,小林 寿朗,土木学会誌92-12,2007,pp.56-57)
埼玉県飯能市