新潟県長岡市山古志小松倉(旧・古志郡山古志村小松倉)地区には、人の手だけで掘り抜かれた日本一長いトンネルがある。それが「中山隧道」である。
山古志は、周りを山々に囲まれ、棚田が広がる美しい山村であるが、冬になると一変して四メートルもの豪雪地帯となる。また、2004(平成16)年10月23日の新潟県中越地震で、その地形が大きく変貌した。それでも、地域一丸となって復興に取り組んだ結果、約7割近い住民が戻り元の生活を始めている。
昭和初期の小松倉集落には、63世帯の人びとが暮らしていた。当時、ここからどこへ出るにも山越えが強いられ、最も近い小出町(現・魚沼市)へ出るだけでも、隣村の広神村(現・魚沼市)との境にある中山峠を越えて行かねばならず、冬になると吹雪で道に迷ったり、急病人を運ぶのに困難を極めた。ほとんどの人たちは宿命と受け止めていたが、集落の数名がこの状況を打開し、孫子のため地域のため、隧道を掘るまいか(掘ろうではないか)と言い出したのである。そして役場へ陳情したが、計画が大きすぎて資金的に無理となった。
行政から見放され支援がないなかで、住人はそれなら俺たちだけで掘るまいかと立ち上がった。構想は集落の総会に諮(はか)られ、賛成41世帯、反対22世帯であった。反対も少なくないなか、賛成派が結束して「掘るまいか」となったのである。
現地踏査した結果、隧道延長は約500間(900メートル)と思われた。測量は小出町の田中組の森山忠雄氏に依頼した。1933(昭和8)年11月12日山の神の命日に鍬立て式(起工式)が、少数の賛同者により執り行われた。掘削断面は、高さ6尺(1.8m)幅4尺(1.2m)の馬蹄形である。坑内は狭いためツルハシの刃と柄を半分にした片刃のツルハシが使用された。掘削作業でツルハシの先端が磨り減ったものを焼き刃付けするため、広神村の鍛冶屋まで冬の中山峠を越えて運ぶのは女性たちであった。
その後太平洋戦争のため、1943(昭和18)年やむなく掘削中断となる。そして1947(昭和22)年、小松倉出身の松崎利得村長が、再開に向けていく度も県への陳情をした結果、林道としてわずかな補助金が付くことになり、これを機会に集落がまとまり全員協力して掘削作業が再開された。
貫通を早めるため、反対側の坑口からも掘削が始められた。その作業は、はじめ広神村水沢新田集落の住民に100間(約180m)分が委託されたが、資金不足から残りは自分たちだけでの作業となった。冬の峠越えをして作業にあたるのは、トンネル掘りよりつらく小松倉の若者が中心となった。一方、小松倉側からの掘削中に大出水に遭遇して中断を余儀なくされるなど幾多の困難を乗り越えて、1949(昭和24)年4月上旬に、しばしの休憩中に「コツーン、コツーン」と小さな音がした。みんなが切羽に耳をあてて確かめた。その音はみんなの喜びであるとともに元気づけるものであった。
貫通が近いことから測量が行われた結果、直線の予定が曲がっていた。あとは音をたよりに掘り進み、同年5月1日夜に貫通した。4年間の中断を含め16年の歳月をかけて、地域の人びとが不屈の精神で掘り抜いた喜びは、言葉に尽くせないもので、感無量であったと、当時の掘り手の松崎六太郎さん、松崎均さんは語っている。
1998(平成10)年に、新しい中山トンネルが完成するまで、中山隧道は約半世紀にわたり村人の生活を支えてきた。側壁にはツルハシの痕が今も残っていて、その一つ一つが訪れる人々の心を捉え、我々に多くのことを語りかけてくる。それは、家族の絆、地域社会へのかかわり、地域コミュニティのあり方、公共事業の原点などを示唆している。そして人間の力の偉大さを改めて思い知らされる土木遺産である。
2003(平成15)年に、この手掘り中山隧道のドキュメンタリー映画『掘るまいか』が完成、各機関から賞、推薦などを受け、土木学会からも選定を受けた。
諸元・形式:
形式 素掘り隧道(貫通時は高さ1.8m/幅1.2mの馬蹄形)。その後拡幅して現在は高さ2.5~3m、幅2.3m
規模 全長922m(貫通時)。現在は水沢新田側坑口崩壊により877m
地質 白岩層(砂質泥岩~泥岩)、魚沼層(細粒泥岩~半固結粘土)
竣工 1949年(着工は1933年、途中4年間中止)
(出典:孫子のためにツルハシだけで掘った中山隧道,山岸 俊男,土木学会誌92-5,2007,pp.56-57)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
新潟県長岡市山古志小松倉