近代上水道の普及は、横浜市を皮切りとして、明治20年代から全国各地で始まった。一方、地下水が豊富で主要な港湾都市が少なかった千葉県では、昭和に入ってようやく交通機関の発達に伴う東京からの人口流入、コレラをはじめとした伝染病の流行、また一部の地域において井戸水の水質が悪かったことなどを背景として、水道事業に対する必要性が強く認識されるようになる。
そうしたなか、1932(昭和7)年6月に内務省河川課長から千葉県知事に就任した岡田文秀の強いリーダーシップのもと、将来の江戸川沿岸の開発とそれに伴う人口増加、さらに東京湾岸の一大工業地帯としての発展を視野に入れ、近代上水道の設置が検討されることとなる。また、水道事業の市町村公営を原則としていた水道条例、後の水道法が改正され、市町村以外の企業者にも水道事業が許可されるようになる。こうして、1934(昭和九)年3月31日、内務省の認可を受け、給水人口25万人、1人1日最大給水量150リットル、一日最大給水量37500㎥、千葉市、松戸町、市川町(いずれも当時)など一市十二町村を給水区域とした千葉県営水道がスタートした。この県営水道の要となった施設が、1937(昭和12)年竣工の栗山配水塔である。
1日最大給水量のうち27000㎥を担ったのが、江戸川の表流水を水源とする江戸川水源工場(後の古ヶ崎浄水場)である。この江戸川水源工場の付帯施設として、約5㎞離れた江戸川左岸の段丘上に栗山配水塔は建設された。江戸川水源工場で浄化された水が、栗山配水塔にポンプで圧送され、そこでいったん貯水されたあと、塔圧力により浦安町や検見川町(いずれも当時)などへと配水された。
鉄筋コンクリート造の配水塔の円筒形の胴体には、ドーム状の塔屋が被さり、さらに頭頂部には四本の柱で支えられた換気口が備わっている。また、ドームの周囲にはバルコニーがめぐらされ、配水塔全体の意匠を引き締めている。一方、塔内階段部一階には、配水塔建設当時のものと思われる圧力測定器と記録計および記録用紙が残されている。
配水塔の設計施工には、第九代水道局長の式田十郎が携わっていたことが、本人の回想記に記されている。しかし、具体の設計をいったい誰が行ったのか、実際の設計者については明らかではない。
さて、戦後の水需要の増大に伴い、県営水道施設では数次にわたる拡張事業が行われた。1956(昭和31)年から始まる第一次拡張事業では、配水塔を取り込むように栗山浄水場が建設され、このとき配水塔の管理は古ヶ崎浄水場から栗山浄水場へと移管された。
1970(昭和55)年には、配管の敷設替えのために、43年ぶりに配水塔の水抜きと塔内整備工事が行われた。この際、塔内の水没部における壁面クラックなどはほとんど見られず、当時の技術水準の高さを窺い知ることができる。
北総線の矢切駅から続く緩やかな坂道を登り、浄水場の敷地に近づくと、どことなくのんびりと、そして悠然と、緑の芝の上に佇む配水塔の全容が見えてくる。建設以来約70年、第二次大戦の混乱や幾多の水害、周辺地域の急速な都市化を優しく見守り続けてきた栗山配水塔は、今なお現役の施設として、松戸市および市川市一帯の約20万人への配水を担うとともに、松戸・船橋両給水場への送水管の調圧水槽として重要な機能も果たしている。近傍の江戸川左岸矢切地先に新設される、ちば野菊の里浄水場の稼働により、2007(平成19)年度に古ヶ崎浄水場は閉鎖されるが、栗山浄水場、そして栗山配水塔は、今後も現役施設として活躍し続ける。
時代や環境の急激な変化にも風化することのない機能とデザインを備えた栗山配水塔。町の建物から、毎朝の通勤電車の車窓から、その英姿は現在も眺めることができる。
諸元・形式:
形式 鉄筋コンクリート造
規模 高さ31.9m/内径15.0m/有効水深20.0m/有効容量3534㎥
竣工 1937(昭和12)年3月31日
(出典:千葉県水道局 栗山配水塔,阿部 貴弘,土木学会誌92-1,2007,pp.68-69)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
千葉県松戸市栗山