水田に適さず不毛の地といわれた愛知県西三河地方の洪積台地である碧海(へきかい)台地は、矢作川(やはぎがわ)から取水した用水によって美田に生まれ変わった。この明治用水は現在、明治本流、東井筋、中井筋、西井筋、鹿乗井(かのりい)筋の五つの幹線水路からなり、安城(あんじょう)市を中心に西三河地方の8市を潤し、工業用にも利用されるわが国有数の農業用水である。河川から用水を水路に引き入れるための施設を総称して頭首工というが、明治用水旧頭首工は1909(明治42)年、人造石(じんぞうせき)によってつくられた。
日本の伝統的な左官技法である「たたき」は、まさ土と消石灰に水を加えてよく練り、突き固め、たたき締めて積みあげていくものである。その表面を自然石で張り石構造にして強度を高め、土木構造物に応用したのが「人造石」である。人造石は、時間が経つと炭酸ガスを吸収して元の石灰石のように硬くなる特質を有し、鉄筋コンクリート工法が普及するまでの過渡期の技術として、明治中頃から大正期にかけて、港湾の防波堤、護岸、用水路などに広く用いられた。この人造石を生み出したのが、三河国碧海郡北大浜村(現・愛知県碧南(へきなん)市)出身の服部長七であった。
幕末に起草された都築弥厚(つづきやこう)翁の計画を明治維新後、岡本兵松(おかもとひょうまつ)・伊豫田与八郎(いよだよはちろう)らが引き継ぎ、殖産興業に同調した愛知県も積極的に協力した結果、1879(明治12)年に着工、5年後の1884年に明治用水は完成した。完成を祝い内務卿松方正義の名で「疏通千里利澤萬世(そつうせんりたくばんせい)」の文字が、明治川神社の森に埋もれた通水記念碑に刻まれている。用水の築造により開田が進み、8000町歩の新田が台地上に開発され、安城地域の農業は目覚ましく発展した。
1880(明治13)年初通水時には、粗朶(そだ)沈床により築造された1819mに及ぶ導水堤から取水していた。しかし、洪水の不安解消や取水量の増量が強く要求され、1901(明治34)年明治用水普通水利組合は、矢作川を横断する取水堰の建設をすることにした。
服部長七が請け負った工事開始の1901(明治34)年、早くも116mの取水堰が完成し、その後に建設された船通し閘門(こうもん)、第一樋門など付属施設の工事を経て、1909(明治42)年に頭首工が完成した。以後、鉄筋コンクリート造の現頭首工が完成する1958(昭和33)年までの約50年間、旧頭首工は矢作川の水勢に耐え、その役目を果たした。
現在、旧頭首工遺構として、人造石造取水堰の一部である排砂門5門と船通し閘門が、矢作川の川面にわずかに湾曲して一列に並んでいる。1966(昭和41)年、矢作川が一級河川となった際、河川管理上不適当として取り壊しが始まったが、人造石造取水堰は堅牢で約1/3を残し解体工事が放棄されたのだという。
明治用水旧頭首工は、いまなおその恩恵にあずかる人びとの手によって計画および図面など史料が数多く残され整理されていること、人造石という特徴的な材料を用いて築造されたわが国初期のアーチ式大規模取水堰であったこと、安城地域の総合開発を見据えた新機能を備えた近代的頭首工の先駆けであったことなど、地域にとってかけがえのない土木遺産である。
諸元・形式:
受益面積 5832ha
組合員数 13532人
幹線水路延長 86160km
水路総延長 396567m
(出典:見どころ土木遺産 第58回 明治用水旧頭首工,田中 尚人,土木学会誌94-5,2009,pp.34-35)
愛知県豊田市水源町矢作川