岩井橋は、わが国初期の鋼製アーチ橋の一つで、橋の側面には珍しい意匠が施されている。また、建築家・武田五一が設計に関与し、関場茂樹が技師長を務めた日本橋梁株式会社が製作したという点も注目に値する。
これらの事実から、この橋に橋梁史上の意義を認めるのは妥当といえよう。しかし、こうした歴史的意義とは別に、デザイン自体の評価、優秀さについて問うならば、議論の余地がありそうである。
岩井橋は、名古屋市鶴舞公園の正面から西に延びる市道岩井町線につくられた1923(大正12)年竣工の道路橋である。橋長30.0m、幅員29.5mの斜橋形式の鋼製単アーチ橋で、堀川へ通じる階段を一体的につくることで舟運と陸運の結節点となっている。
なぜ武田五一が設計に関与したのか、その理由は詳(つまび)らかでない。ただ、東京市区改正条例を準用して、名古屋市で最初に計画された5大幹線道路の第1号線が現在の岩井町線であることから、その都市計画上の重要性に鑑みて、名古屋市区改正委員会に名を連ね、さらに京都で橋梁設計の実績のあった武田に声がかかったと考えても不自然ではない。ちなみに、武田は同じ路線につくられた記念橋の設計も担当している。
さて、橋のデザインだが、まず、この橋の形を決める大きな要素は、川をひとまたぎする鋼製アーチである。アメリカで修行し、鋼橋の設計を得意としていた関場茂樹は「他の装飾を施さずとも美的建築物として人々から許される」アーチ形を好んで用いたことで知られ、武田についても作品集を見る限りアーチ形を多用している。
このアーチ形の使用に異論を唱える人はあまりいないだろう。問題は飾り板の扱いである。外観を構成する両側面のアーチリブには、スパンドレルに半円アーチ形の飾り板が付けられている。それぞれアーチ起拱部でアングル材を渦状(もしくは巻き毛状)に加工するという特徴をもっている。こうした意匠は、19世紀末の欧米でよく見られたものである。たとえばエッフェル塔(1889年竣工)では、当初の構造材のみからなる技術者ケクランの原案が、建築家ソヴェストゥルによる装飾性を強めたものに修正された後、最終的にそれらを足して2で割ったようなデザインで決着するわけだが、そこで実際に主要装飾モチーフの一つとして使われたのが、この鉄材の渦状模様であった。写真からわかるように、後のアールヌーボー様式を予感させる形態をしている。ただ岩井橋の場合、エッフェル塔と比較するのは酷かもしれないが、意匠の完成度は高いとは言い難く、むしろ取って付けたような印象を受ける。
さらにこれを見て思い起こされるのは、岩井橋竣工の翌年に実施され、武田も審査委員を務めた大阪市の大江橋および淀屋橋のデザインコンペである。応募案の一つがアーチ起拱部に渦紋を付けたところ、審査ではこの装飾が橋梁の「力学的権衡を破壊」していると批判される。岩井橋の場合、構造上意味のない装飾アーチであるという違いはあるが、同等の批判を受けても致し方ない。実際、エッフェル塔では渦形をアーチ形と独立させ、さらにアーチ自体も反復的なモチーフとして扱い表層性を高めることで、この問題を回避している。
武田五一は、後に日本の伝統的な橋梁を引き合いに出しながら、構造デザインでも装飾デザインでもない第三の道を示唆するなど、橋梁デザインについて貴重な考察を行った建築家である。岩井橋は、こうした思考に至るまでの模索の時代につくられた一つの習作と位置づけるべきものなのかもしれない。
諸元・形式:
形式 鋼製単アーチ橋
規模 橋長30.0m/幅員29.5m
竣工 1923(大正12)年
管理者 名古屋市
(出典:見どころ土木遺産 第55回 岩井橋,北河 大次郎,土木学会誌94-2,2009,pp.32-33)
愛知県名古屋市中区松原~中川区松重町