沿革:
十綱(とつな)の由来
東北地方屈指の温泉地である飯坂は、町の真ん中を流れる摺上川に架かる十綱橋にまつわる逸話が残る歴史の町でもある。明治4 4年に、この地を訪れた与謝野晶子は、「飯坂のはりがね橋に雫する、あづまの山の水色の風」と当時の十綱橋のある風景を詠んでいる。
十綱橋の歴史は古く、平安時代末期までさかのぼる。名前の由来は、この橋が藤(とう)綱の吊橋で、十(とう)の綱が張られたことによるといわれてきた。千載和歌集には、京にも聞えた藤のつるを編んだ珍しい吊橋が「と綱の橋」と詠まれ、東鑑には、「・・・藤の十綱を渡る時代の民草いかなるようにありつらん」と記されている。平泉に落ちてゆく義経の追討軍をこの地で迎え撃った大鳥城主の佐藤基治は、軍勢を阻止するために藤綱を切断して橋を落としたと言い伝えられている。
700年ぶりの再建
明治に入ると、およそ700年ぶりに新たな橋架けの歴史が始まった。今日の十綱橋は、大正4(1915)年に建設された現存最古級の鋼橋であるが、これ以前には、2 つの橋梁プロジェクトの歴史がある。
最初は、明治6(1873)年のことで、近代的な木・鉄混合の曲弦トラスが、摺上橋の名で架けられた。63m をひと跨ぎする規模で、明治初めとしては、国内最大級であった。
この橋の計画は、伊達一という地元の盲人の按摩師と、百姓の熊坂惣兵衛の2 人の提案によって始まった。橋の建設に対する地元の嘆願は、珍しいことではないが、この提案書には、自費の建設資金の献上が記され、地区長ほか地元の役場関係者連名の公文書として、行政手続に則った企画提案書であった。しかし、設計上の問題か、この橋はわずか1 0ヵ月という短命であった。
2代目の橋は、明治8 年に工費8,500余円をもって再建された。イギリス人技術者ウォートルスが、明治3 年に皇居の吹上御苑に架けた山里の吊橋を参考とし、鉄製のワイヤーを用いた長さ6 9 mほどの吊橋であった。近くの医王寺の杉の神木から切り出された男柱(塔)とワイヤーロープのケーブルが使われた。
大正ロマンとしての十綱橋
この吊橋は、40年近く供用されたが、木製の塔が破損するに至り、大正4 年に現在の橋に架け替えられた。構造形式は、上路2 ヒンジブレースドリブアーチで、橋長54.0m 、幅員6.8mで、100トンの鋼材が使われて建設された。世界各国が鉄道建設時代であった19世紀中ごろ以降、トラスは鉄橋の代名詞であった。しかし、20世紀に入ると、アーチが増加し、親柱や照明燈、構造ディテールにも意匠性が高まってきた。わが国では、欧米から輸入されたトラスが盛んに架けられたが、明治末の国産化以降、大正、昭和へとアーチが増えてきた。山家橋(明治45年・京都)、四谷見附橋(大正2 年・東京)、納屋橋(大正2 年・愛知)、難波橋(大正3 年・大阪)などとともに、十綱橋は、アーチ第1 世代を形成し、大正ロマンを具現した橋であった。
(出典:十綱橋, 五十畑 弘,土木学会誌90-4,2005-4,pp.54-55)
諸元・形式:
構造形式 上路2 ヒンジ ブレースドリブアーチ /橋長 54.0m /幅員 6.8m/支間長 40.2m
竣工 大正4(1914)年11月10日
所在地:福島県福島市飯坂町・摺上川
度重なる手入れ
橋は、その時代の技術に基づいて、時には大規模な改造をも許容した手入れで新たな生命を吹き込み、次世代に引き継ぐものである。3 代目の十綱橋も、90年の歴史の中で、たびたび手が加えられてきた。戦後では、昭和25年に物資窮乏の中、全面的な塗装が行われた。昭和42年には、アーチ部材に鋼板が溶接され、I 断面から箱型断面に改造される大規模補強工事が施された。この後、床版の打ち替え、高欄、照明の追加が行われ、昭和54年に橋体は、今日の薄いグリーンに塗装された。手入れを怠りなくすることで、構造の安全性や耐久性だけではなく、歴史と文化をも引き継ぐことができることをこの十綱橋は語りかけている。
(出典:十綱橋, 五十畑 弘,土木学会誌90-4,2005-4,pp.55)