函館の街,山麓の外人墓地から魚見坂を下ると、左手に地元では「入舟漁港」と呼ぶ函館漁港がある。そしてその奥に,函館ドックが建っている。
幕末、安政元(1854)年3月の日米和親条約そして安政5年の修好通商条約により、箱館(後の函館)に開港の荒波が一気に押し寄せる。
外国人居留地や倉庫、造船所用地のための民間の埋立工事が盛んになり、船舶や貨物取扱が急速に増える。
しかし、船舶を修理するドックが無いため、回航出来ない船舶は廃船を余儀なくされた。
一方、亀田川からの流入土砂、沿岸漂砂による港内埋没、船舶の大型化により繋留場所が沖合化するなど天然の良港の限界が顕在化する。
港の将来を案じた地元経済界の有志は明治11年6月開拓使にドック築造を請願する。
開拓使も必要性を認め、海軍の肥田浜五郎にドック地選定調査を依頼。その後も内務省雇工師ムルデル、海軍省技監桐野利邦、雇工師メークらトップクラスの技術者が調査するが、港湾プロジェクトは実現しない。
しかし、京都府知事として琵琶湖疎水を実現した北垣国道が長官となる明治25年夏に、歴史が動く。
北垣は国家的見地から開拓が緊要と考え、鉄道や港湾、道路などの拓殖事業を盛り込んだ「北海道開拓意見書」を翌年3月、井上馨内務大臣に提出する。港湾改修・ドック計画の立案を命ぜられた廣井勇は潮流、海底地質など精密な調査を行い、明治27年12月に「函館港湾調査報文」を北垣長官に提出する。
同年11月には土木技監の古市公威が函館港に出張し工事設計を検分して、その妥当性を認めたことで、港湾プロジェクト実施は決定的となった。
明治29年から着工した港湾改良工事では,船入澗防波堤および埋立護岸として約1150mの石垣が築かれている。この石垣には旧弁天砲台の石垣を取り壊した間知石、亀腹石などの石材が流用されている。
その弁天砲台は五稜郭も手掛けた蘭学者武田斐三郎が設計したもので、石垣の工事は石工棟梁の井上喜三郎が請け負ったものである。
その堅牢さは、廣井勇が「此建築は今日のものに比して毫(ごう)も劣る所なし」と嘆じたほどで、廣井はこの石積み工法を防波堤設計に取り入れている。
水中の間知石積みを確実にするため強壮な石工に潜水を熟練させたほどである。
堤体内部に生ずる圧搾空気を考慮した間知石積みの工夫などわが国の伝統技術と先進技術を融合させた緻密な工夫を設計、施工に行き渡らせている。
また、生産開始間もない上磯セメントの使用適否を決める試験を行った結果、コンクリートブロックと陸上場所詰めに適していることを検証し、工費節減と道内セメント産業振興にも大きく役立つこととなった。
函館船渠(株)が明治29年に設立され、31年から乾ドック工事に着手する。
当初計画では3500トン級の船舶を想定していたが、日清戦争後の海軍勧告により、1万トン級の艦船用に変更となる。
工費節減のためドック側壁の材料に用いる石材を減らし、コンクリートブロックを使うことにしたが、これでもまだかなり無理な積算だったようで、まもなく資金繰りが悪化し、会社経営の危機をもたらす。
施設規模の拡大と工事遅延による経費増など工事初期からつまずき難航したプロジェクトも、明治36年にようやく仮開業を迎える。
港湾改良工事は廣井勇が調査から施工まで指揮した初期の事業であり、廣井の技術者精神の発露とその展開を辿れる貴重な土木遺産である。
現在、船入澗防波堤の堤頭部が一部欠損し、第1号乾ドックも側壁の傷みが目立つが、いずれも建設当初の姿を失わず、未来に恩恵を贈り続けている。
(出典:見どころ土木遺産 近代港湾技術の夜明け 旧函館港湾施設群,柏葉 導徳,土木学会誌90-5,2005,pp.64-65)
北海道函館市