王子橋は、1884(明治17)年に京都府亀岡市篠町王子(当時の南桑田郡王子村)の保津川支流鵜ノ川に架けられた石造(花崗岩)アーチ橋である。長さ15間4尺(約28.5m)、幅3間(約5.5m)、アーチ径82尺7寸4分(約25m)、浅弧形二重巻の穹窿(きゅうりゅう)石造の特徴をもち、両岸の自然岩石上に設けられた橋台間をひとまたぎする。通常アーチ部を構成する輪石には大きな石が用いられるのだが、本橋には装飾性を帯びた比較的小さな石が使われている。ぱっと見た感じでは隧道ポータルによくみられる、水平方向に並べられた帯石の下に五角形の楯状迫石が配置されているように見える。しかしよく見ると楯状迫石は4~6つの小さな石で構成されており、壁部に用いられている石の大きさ、積み方は一定ではないが緻密にかみ合うディテールの違いがアーチ部の雄大さをさらに強く印象づけていて、当時の加工技術の高さや施工時の丁寧さが伺える。この橋は、1881(明治14)年11月から1889(明治22)年8月の約8年をかけて山陰街道の京都―宮津間を結ぶ車道開削工事で建設されたものである。
鉄道建設が急がれたこの時期に、なぜ大規模な道路整備が優先されたのか?明治初期の京都といえば、1885(明治18)年に着工した琵琶湖疎水事業が有名であるが、これより前にこの工事が始まっていたことになる。
当時京都では、明治維新の東京遷都によって衰退しつつあった市中に活力を呼び戻すために、京都府北西部に位置する丹後国五郡・丹波国天田郡が京都府に編入されたことを契機として、縦に長い京都府を結ぶ車道の整備が課題として考えられていた。具体的には、京都市街と丹波・丹後の物資を円滑かつ迅速に輸送するためのもので、京都市街の工業製品や丹後の生糸、ちりめん、さらに日本海の海産物などを、荷車や人力車といった当時の主要な交通手段で輸送することを想定していた。改良前の道路は、幅員1間~3間と統一されておらず、また急峻な勾配区間が数多くあったため、荷車などの通行に支障を来していた。しかし、本工事が実施されることで統一した幅員3間の道路となり、当時としては現在の高速道路並みの規格をもった物流大動脈へと生まれ変わろうとしていた。
この壮大な道路改良計画は、1881(明治14)年1月に就任した第3代京都府知事北垣国道(きたがきくにみち)の時代に急速に進展することとなる。1881(明治14)年5月の京都府会において建議が可決され、この建議にもとづいて京都府は京都―宮津間車道開削工事議案を京都府会に提出、17.5万円の予算で同年11月より5カ年計画で実施されることとなった。この事業は、当初の計画よりも3年遅れて1889(明治22)年に完成した。費用も当初計画を上回る31万円までに達した。同時期に実施された琵琶湖疎水事業が125万円だったことからも、大規模な事業であったといえる。
この費用については、国庫補助金(全国初)、地方税、沿道住民の寄付で賄われ、金銭面だけに限らず労力の面でも地元住民が積極的に貢献したことはいうまでもない。王子橋の施工が王子村の山名乙次郎となっていること、費用を抑えるために地場材料が使われたことからも、まさに官民一体となった事業といえるだろう。
本道路の完成により、それまで2泊3日を要した宮津―京都市間が、馬車でわずか15時間程度にまで短縮され、現在の国道9号が担う京都と日本海を結ぶ陸の大動脈の礎が先駆けて築かれ、地域の発展に貢献した。王子橋は、完成後1933(昭和8)年にコンクリートを用いた欄干部の拡幅工事が行われ、親柱に照明設備が整えられた。さらに1969(昭和44)年には、重交通に耐えるべく新たな橋が本橋の横にかけられたため、本橋は歩行者用の橋として現在に至る。
インターネットで王子橋を調べてみると、地元の篠町自治会では、ごみ拾いや草刈りなどの美化活動だけでなく、今回の選奨土木遺産の認定を受けてセレモニーを開催したそうである。橋を計画しつくる段階から地元住民が物心ともに密接にかかわり、いまも変わらず愛され続ける土木遺産の様子を知り、いまの土木事業で失われがちな何か大切な部分を再確認させられた。
諸元・形式:
形式 石造アーチ橋
規模 橋長28.5m
竣工 1884(明治17)年
(出典:王子橋 京都の陸の大動脈を支えた橋,吉田 長裕,土木学会誌93-12,2008,pp.48-49)
京都府亀岡市(国道9号,鵜ノ川)