大阪城の北西をかすめて中之島を囲んで走り大阪港へ注ぐ、水都大阪を象徴する川の流れは、市街地の北東部にあたる毛馬(けま)において、淀川から分かれて始まる。毛馬洗堰(あらいぜき)と閘門(こうもん)は、この取水部にあたり、大量の土砂と洪水が都市の主要部分へ流入することを防ぎながら、都市内の安定した水運を保証する施設群であった。
1868(慶応4)年、外国へ開かれた大阪港は、まだ河川港であり、河口に堆積した土砂に阻まれて大型汽船の出入りは困難であった。商工業の形態が変化し、舟運以外の交通機関が発達すると、商権は船舶交通の便利な兵庫へ移ってしまう。再起を図る大阪では、国際貿易のできる近代港湾の建設が求められ、いくつかの計画が提案された。なかでも、知事の建議で政府から派遣されたオランダ人技師デ・レーケらにより、1887(明治20)年作成された計画では、築港を海だけの問題ではなく、淀川の改修と同時に考えるべきものとし、淀川が大阪のまちへ入る前に水を制御するアイデアが含まれていた。雨などで増水して大量の土砂を含む水は、市街地と港へ入れず、放水路(新淀川)を設けて一目散に港の外部にある河口へ追い出すという方法は、以後の計画に踏襲されることになるが、この時点では財政、制度上の問題でなかなか実現されない。
築港運動が盛り上がるなか、1892(明治25)年ついに大阪市議会は築港に向けた予算を組んで設計をはじめ、1897(明治30)年に築港が始まる。築港と歩みを同じくして、1894(明治27)年大阪土木監督所長の沖野忠雄(後に初代築港事務所工事長を兼任)が内務省へ提出した淀川の洪水防御計画は、国直轄の「淀川改良工事(明治30〜43年)」として結実する。この「改良」工事は、築港計画と同じビジョンのもとにあっただけでなく、さらに広く琵琶湖から大阪湾までの淀川流域全体を視野に入れ、舟運、港湾などの利水のために、たびたびはん濫を起こす巨大河川を、抜本的に飼い慣らす壮大な計画だった。
そのなかで、毛馬の洗堰と閘門の建設は、重要な位置づけであった。真っ直ぐ海へ向かう放水路として新たに開かれた新淀川が本流となり、派流となって水量が制御された旧淀川は、洗堰によって基本的に水面を締め切られる。当時はまだ重要な輸送手段だった京都と大阪をつなぐ舟運を確保するために、大阪市街への入口となる閘門が必要であった。閘室(こうしつ)内に舟を入れて扉を閉め、給排水管を通じてゆっくりと閘室内の水位を調節することで、高低差のできた本流と派流の間の交通が結ばれた。
1975(昭和50)年、同地に新閘門および新水門が建設される過程で、毛馬洗堰・閘門、そして後年築かれた第二閘門はその役目を終えたが、それらの大部分は「歴史モニュメント」として、そのままの場所に保存されることとなった。現在、その一部は淀川管理事務所の敷地内にあるが、残りは淀川河川公園のなかにあって一般に公開されている。壮大な構想における重要な役割を果たす重厚な施設であるのに、その細部のデザインには手づくりの味が感じられるためか、意外に優しく人懐っこい。淀川管理事務所によれば、いずれこれらのすべてを含むように公園敷地を広げる予定だという。そのときには、良くも悪くも現在の大阪のまちの基盤をつくったかつての壮大な治水思想に触れられる、この施設をコースの名所にして、豊かな散策が楽しめるようになるだろう。
諸元・形式:
形式 閘門(第一):れんが造、鋼合掌戸/洗堰:れんが造・石張水切
規模 閘門(第一):全長105.80m/閘室長75.38m/閘室幅11.35m 洗堰:全長53.30m/10門(うち現在は3門が残存)
竣工 閘門(第一)1907(明治40)年/洗堰1910(明治43)年
設計・施工者 内務省第五区土木監督署(後に大阪土木出張所)
指揮監督 沖野忠雄
管理者 淀川管理事務所
(出典:見どころ土木遺産 第57回 毛馬新洗堰・毛馬閘門(第一),出村 嘉史,土木学会誌94-4,2009,pp.32-33)
大阪府大阪市北区長柄東三