宮崎空港駅から「にちりん18号」に乗って,日豊本線を北上する。高鍋を過ぎ,しばらく進むと右手に高架線が現われる。この高架が終わる辺りから美々津町となる。宮崎空港から乗車して初めてのトンネル・美々津トンネルを抜けると視界が開け,眼下に満々と水を湛えた耳川が現われる。その上流にあるトラスで構成された2連のアーチを持つ橋,それが美々津橋だ。
1929(昭和4)年,宮崎県は「十ヵ年継続土木事業」を構想し,6橋の道路橋架設を計画した。耳川によって分断された国道3号線を接続する架橋計画も,その一つである。当時,耳川を車両が通過するには,渡し舟に載せて運ぶしかなかった。分断された国道を橋で結ぶことは,地元の悲願であった。しかしながら県の財政状況は早期の工事着手を望めず,耳川架橋の計画は1931(昭和6)年以後の失業救済土木事業に編入され,1933(昭和8)年1月に着工し翌年3月に美々津橋として竣工した。設計は当時,橋梁コンサルタントとして活躍していた増田淳(1883~1947)である。
土木研究所に美々津橋の設計図と設計計算書が残されている。図面はすべて青図だが,設計計算書は手書きで,百数十ページにも及ぶ。これによると美々津橋の設計は1929(昭和4)年に予備的なものが開始されていた。事務所のアシスタント・稲葉健三が作成した昭和4年10月28日付けの計算書には,「第1案 Rib arch」と題された橋の立面スケッチが描かれている。これを見ると当初美々津橋は2連のオープンスパンドレルアーチ形式で構想されていたようだ。その後,1931(昭和6)年1月頃から本格的な設計が行われ,現状のスパンドレルブレーストアーチ形式で設計がなされている。設計図の1枚目の「GENERAL MAP」を見ると,耳川の渡舟の航路が記されるとともに,渡しとだいぶ離れた地点に美々津橋が描かれていることがわかる。従来の国道を大きく迂回させてまでも,橋長が最短となるような架橋地点を選んだのだろう。
美々津駅から国道10号線を20分ほど歩くと耳川につきあたり,1967(昭和42)年に造られた美々津大橋に出る。橋上からは日豊本線の耳川橋梁越しに,美々津橋が見える位置だ。橋を渡り,川沿いの道を進む。踏切を渡ると県道中之原美々津線にでた。この道が旧国道3号線であり,美々津橋架橋に伴って国道を大きく迂回して造った道路である。
美々津橋の袂には,左右に石貼りの親柱がある。矩形断面の親柱で,先に行くにつれ段階を追って細くなる。側面に橋名と建設年を記した銘板が取り付けてあるが,建設当初のものではない。戦前にはブロンズのオーナメントが付けられていたが,第二次大戦時に供出されたという。川沿いの小道を下ると,橋床を支える巨大な鉄骨のアーチを眼前にできる。鉄骨の各部材は,現在見られる一体成型されたものではなく,細かな部材をボルトで接合して作った,まさに戦前の鉄骨構造そのものであった。
橋の細部を観察すると,戦前の鉄骨構造がもつ,無骨とも質実剛健とも形容できる独特の味わいが感ぜられる。遠くから橋全体を眺めると,今度は逆に,洗練された現代的な構造物の雰囲気を感じる。これが,橋梁コンサルタントとして名を馳せた増田淳の設計センスというものなのだろう。
美々津橋は,耳川を囲む山々の中でその存在を強く主張しつつも,決してそこから浮き上がることなく,絶妙な均衡を保って周辺の景観と調和しているように思える。増田は,自身,美々津橋を評してこう書き残している。
「翠山,明水,白帆亂れ動く美々津港の正面に蜃氣樓の如く浮び揚る本橋の美容亦賞玩に値せん。」
美しい自然のなかに立つ土木施設とは,どうあるべきか。美々津橋は,実物をもってそれをわれわれに示しているのである。
諸元・形式:
構造形式 鋼スパンドレル・ブレーストアーチ
規模 橋長168.7 m/最大支間長64.4 m/有効幅員7.5 m
着工 1933(昭和8)年1月
竣工 1934(昭和9)年4月11日(開橋式)
(出典:美々津橋を巡る(土木紀行),久保田 稔男,土木学会誌88-10,2003-10,pp.60-61)
宮崎県日向市美々津町(県道中之原美々津線)