「春高楼の花の宴…」大分と熊本を結ぶJR豊肥本線「豊後竹田駅」に列車が入ると,瀧廉太郎作曲,土井晩翠作詞の『荒城の月』が,ホームのスピーカーを通して流れてくる。
竹田市は大分県の南西部に位置し,同市内には,国史跡「岡城跡」をはじめ,国重要文化財「願成院本堂(愛染堂)」や国史跡「旧竹田荘」(江戸期の南画家・田能村竹田の旧居),国史跡「岡藩主中川家墓所」,武家屋敷や商家の町並みなど,歴史や文化の薫る文化財がたくさん残されている。それ以外にも,明治から大正,昭和にかけて構築された構造物が多く,そのほとんどが今もなお利用されている。ここで紹介する明正井路(めいせいいろ)一号幹線1号橋も,今も利用されている現役の水路橋である。
明正井路とは,緒方川上流(竹田市入田)に取水口を設けた灌漑用水路で,明治~大正年間にかけて計画・建設された。「明正」の名前は「明治」と「大正」を合わせたものである。導水路幹線部分の総延長は約48km,分派用排水路は延長が約127kmに達し,包容面積約2323ha,開田面積約402ha(緒方町402ha,清川村96ha)というきわめて広大な面積を潤す水路である。
井路本線(第一幹線,第二幹線)の工事は,1917(大正6)年11月から1924(大正13)年6月にかけて行われた。井路の延長上には多くの川や谷があるため,明正井路全体では合わせて大小17基の水路橋が建設されている。当時設計に従事していた矢島義一技師が心労のあまり健康を害し自ら命を絶ったという事件が発生しており,こうしたことからもかなりの難工事であったことが想像される。
明正井路本線(一号幹線,二号幹線)の中で最も大規模な水路橋が,先述の「第一拱石橋」である。正式には「明正井路第一幹線1号橋」と言うべきもので,竣工は1919(大正8)年。規模は,全長:78m,橋幅:2.8m,拱矢(基礎の下からアーチ下部までの距離):3.3m,径間:10.7m,環厚:60cmであり,6連のアーチ上に4段の石壁を積んで通水部を築造した重厚な構造となっている。また,石積みは「布積(ぬのづみ)」という方式で,これは方形に成形した石を目地が横に通るように積み上げることを指す。
橋脚側面にある橋銘板には,「明正井路 第一拱石橋大正八年成」とある。横に,揮毫者として「大分縣知事従四位勲五等 新妻駒五郎」の名前がある。「新妻駒五郎」は,大分県第18代の県知事で,安政2年生まれの福島県出身。大分県知事赴任時の年齢は62歳で,在任期間は,1917(大正6)年1月17日~1921(大正10)年5月27日であった(「大分県史 近代篇III(1987(昭和62)年3月,大分県発行)」より)。また,橋脚の側にある石碑には,「工事施行関係者」として,設計者:矢嶋義一,監督者:近藤正之(ほか),請負人:直入郡人 堀貞夫,石工:熊本縣人 平林松造外八名 の記述がある。
「明正井路」に架かる石拱橋で,「第一拱石橋」以外の主なものは,「第一幹線2号橋(竹田市大字太田~緒方町大字木野,1922(大正11)年,橋長:47.5m,3連)」,「第二幹線1号橋(緒方町大字徳田,1923(大正12)年,橋長:26.9m,単連)」,「第二幹線2号橋(緒方町大字徳田,1923(大正12)年,橋長:57.5m,3連)」などである。いずれも,山間の田園風景の中で,地域の生業を支える施設として堂々たる風格を備えている。
また,明治・大正時代に農業用灌漑施設として築造された水路には,竹田市大字植木の「明治岡本井路(石垣井路)」(大正10年代)や大字挾田の「若宮井路笹無田石拱橋」(1917(大正6)年)が,1996(平成8)年12月20日付けで国の登録原簿に登録されている。
大分県内には,水路橋や道路橋など,合わせて496基の石造アーチ橋が現存する。これらの多くが明治,大正,昭和期に築造されたもので,今もなお農業用,あるいは生活道路の一部として使われている。
こうした石造アーチ橋の,景観の中でのある懐かしさと存在感は,それらが毎日を生きていくうえで欠かせない施設であり,筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の末に構築されたという,地域の歴史が背景にあるからであろう。
諸元・形式:
構造形式 水路用石造アーチ橋
規模 橋長78m/橋幅2.8m/拱矢3.3m/径間10.7m/環厚60cm
(出典:奥豊後に架かる水の石橋 明正井路第一幹線1号橋(土木紀行),吉永 浩二,土木学会誌88-8,2003-8,pp.62-63)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
大分県竹田市大字門田(緒方川)