四国に屋根のある橋があるという。それも木橋である。ドラマのロケ地などでも知られるその橋の名は、田丸(たまる)橋。
内子町の町並・地域振興課長に電話してみた。同課は,町並みだけでなく美しい村並み・山並みを守ってきたノウハウと人材を蓄積してきた町の原動力でもある。
「春になると,橋のまわりの桜や菜の花がきれいですよ」
春を待って訪れた内子町は,JR松山駅から特急で30分。いくつかのトンネルをぬけると山間の盆地に穏やかな町が開けている。散策すると町屋の漆喰壁や格子など歴史的意匠が楽しい。そうした街中から車で10分程度,麓川の両岸にある棚田を結ぶように架けられたその橋は,何げない田園風景の中にぽっかりと佇立していた。
町が行った住民への聞き取り調査では,この麓川にはかつて数か所の屋根つき木橋や土橋があり,往還の時代には飛び石も6~7か所あったということだが,現在はない。
田丸橋の床板と切妻屋根を支える梁は,水に強い栗材が使われ,それぞれ9本,計18本の柱が杉皮屋根を支える。この木橋にピア(橋脚)はなく、方杖状のアーチが橋を支えている。もともと土橋だった「田丸橋」は1943(昭和18)年の大洪水で流されてしまった。そのとき,ピアのない屋根つき橋「樋の口橋」が残ったことから,その教訓をふまえて1944(昭和19)年,ピアのないアーチで再建された。以来,台風による増水で橋桁近くまで水位が上がったこともあるが大きな被害は受けていない。
田丸橋は1982(昭和57)年,地域住民による屋根の葺き替えが行われ,内子町文化財に指定されている。それまで,屋根は波トタンに改修されていたのだが,山里の風景にそぐわない。そう考えた田丸橋保存会の人たちが,屋根を葺く手間や費用を惜しむよりも失った風景の復元と維持を選んで杉皮に葺き替えたのである。その保存会が,今も橋を管理し続けている。
それにしても,なぜ橋に屋根があるのだろうか。一般的に,屋根付き橋は社寺の境内などに見られることが多い。こちら(此岸)とあちら(彼岸)をつなぐ神橋としての屋根である。
内子町には,室町時代に創建されたと伝えられる弓削(ゆげ)神社に太鼓橋という屋根付きの橋があるが,これも神橋の名残であろう。太鼓橋の建造年代は不明だが,その意匠や技術が、かつて内子町に10ヶ所以上あったという屋根付き橋の手本となったことは想像に難くない。
「橋渡し」とは,橋をわたすほかに,なかだちをするという意味もある。橋の起源とされる「飛び石」から土橋,木橋へと交替してきた麓川にかかる橋の変遷は,その目的を人やモノをわたして仲立ちするために時代の段階を経たが,屋根をつけたことによって思わぬ付加価値がついた。本来は,寿命の短い木橋の老朽化や腐食を防ぐための屋根であっただろうが,この橋はいつしか渡る人たちの足を止めた。山で焼いた木炭を運ぶ人たちは荷を下ろして一時的に倉庫がわりとした。農民は稲刈りの合間に屋根の下で休み,昼食の場は語らう交流スペースとなった。また,藤見やホタル鑑賞には格好の場として地域住民に親しまれてきたのである。ある時,生活道路にかかる橋に屋根をつけたことによって,結ぶ機能から集う機能へと進化した。無論,心安らぐ源は橋の構造や材質に負うところも大きい。シンプルで自然であることは,周辺の景観に対しても反駁しない。洗練されたデザインとは,このようなことをさすのかもしれない。
風景は変容する。人も自然も不変ではない。だからこそ地域と共に生きてきた歴史遺産からは,多くの「継承(ヘリテージ)」を読み取ることができる。そこに土木遺産の価値もある。
諸元・形式:
構造形式 木方杖/切妻屋根
規模 全長14.08m/幅2.09m
(出典:柔らかな土木遺産 屋根のある橋・田丸橋(土木紀行),緒方 英樹,土木学会誌88-7,2003-7,pp.52-53)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
愛媛県内子町河内(麓川)