上野駅から特急ひばりに揺られて黒磯駅に着き,その後路線バスに乗りかえる。駅前を発車したバスはアーケードのある短い商店街を抜けていく。しばらくすると急に視界が開け,はるか下方に那珂川の流れが見える。それが晩翠橋である。
明治維新後,明治政府は治安と殖産興業の面から東北経営を重視した。これを具体的な事業として推進した人物のひとりが三島通庸(1835~1888)である。三島は酒田県令,山形県令,福島県令を歴任し,会津三方道路など,各地で地元負担を強要する強引な道路改良事業を行った。1883(明治16)年に栃木県令に就任すると,すぐに栃木県を縦断する陸羽街道の改良計画に取りかかる。計画は1884(明治17)年4月に着手され,幅4間(約7.2m)以上,両側に3尺(約0.9m)の側溝を持つ直線的な道路がたった5か月で整備された。現在の国道4号線である。
江戸時代の奥州街道は大田原,黒羽,芦野を経由して白河の関に至っていたが,新しい国道ルートには当時不毛の地であった那須野が原の中央を通る原街道が選ばれた。この国道整備の際,那珂川に架けられたのが初代晩翠橋である。この橋は6年後に洪水で流失してしまい,5代目にあたる現・晩翠橋が架かるまで,9年から15年ごとに架け替えが行われた。
1929(昭和4)年の世界恐慌は日本にも未曾有の不況をもたらし,大量の失業者が発生した。政府は失業救済事業として昭和6年度に予算総額1750万円の国道改良直営工事を行った。熟練工ではない地元の失業者に仕事を提供できる事業として道路改良が選ばれたのである。しかも,雇用の確保と,短期間で効果を上げるために「機械力に依らず,一箇年度を限り完了する」ことが目された。
栃木県内では国道4号線の改良が行われ,1925(大正15)年に建設された那須御用邸への道筋にあたることから晩翠橋の掛け替えが行われた。当時,晩翠橋は現位置よりも数十m上流側の,川幅が最も狭くなる部分に架けられており,前後の取付け道路が急カーブ・急勾配になっていて通行上危険だったのである。
設計にあたったのは台湾総督府帰りの内務省土木局技師永田年(すすむ)(当時33歳)で,北大から内務省に入って2年目の富樫凱一(当時25歳)が設計補助を担当した。富樫は設計終了後現場に赴任して施工にあたった。上部工の製作は淺野造船所が行った。当時作成された全36枚の図面は現在も栃木県庁に保管されている。また,橋の竣工前に出版された『鋼橋』(三浦七郎著)には晩翠橋設計計算の全容と図面の一部が実に120ページにわたって掲載されている。橋梁技術の最先端が鉄道省に存在した当時の状況の中で,内務省の威信をかけた自信作であったことが想像される。
鋼ブレースト・リブ・バランスド・アーチという形式は,この晩翠橋のほかには,埼玉県・秩父に建設された荒川橋(設計・増田淳,1929(昭和4)年竣工)にしかない。「ブレースト・リブ」とは強度を増すためのトラス構造のことで,「バランスド・アーチ」とは中央支間と側支間(橋の両端側)を連続させてバランスをとるアーチのことである。
橋の姿と地形との関係で言えば,側径間のアーチリブが斜面に近くてやや窮屈に見える。バランスド・アーチが伸びやかにうまく納まるのは,開放的な広い場所に,高い路面の道路を設ける場合である。しかしそうした場合には橋脚を立てて桁橋やトラス橋とする方が安価で施工も容易であろう。
それでも晩翠橋でこの形式が選ばれたのは,現場での基礎施工と工場での上部工製作を並行してできることといった工期上の利点もさることながら,天皇が渡る晩翠橋を,その下流に架かるプラットトラスの東北本線那珂川橋梁(1919(大正9)年)よりも進んだ橋にしなければならないという,鉄道省をライバル視する内務省エンジニアの思いがあったのではないだろうかと思う。
今,晩翠橋を渡ると,那珂川の流れや,河岸段丘上の見事な赤松林,那須連山が目に入り,橋の姿には気づかない。見事なアーチの姿を間近で眺めるには,右岸下流側の坂道を降りて川原に出るといい。そうすれば,晩翠橋を組み上げている部材をひとつひとつ確かめることができる。
諸元・形式:
構造形式 鋼ブレースト・リブ・バランスド・アーチ
規模 橋長128.6m(中央支間70m)/有効幅員9m
竣工 1932年
(出典:晩翠橋 内務省エンジニアの意地(土木紀行),福井 恒明,土木学会誌88-6,2003-6,pp.58-59)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
栃木県那須塩原市,那須郡那須町(県道黒磯高久線,那珂川)