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ホーム › 2002年 › 萬代橋

萬代橋の解説シート

概要

名称
萬代橋
所在地
新潟県/新潟市
竣工年
昭和 4年
選奨年
2002年 平成14年度
選奨理由
日本人技術者による初の空気潜函工法を用いて築かれ、充腹アーチ橋として国内最大の支間長を誇り、マグニチュード七・五の新潟地震に耐えた橋梁

沿革や緒元・形式

新潟市で日本海に注ぐ大河信濃川,その河口部に威風堂々と架かり,それでいて人々に対しては温和な印象を与えている橋が萬代橋である。1886(明治19)年に架けられた初代萬代橋は木造であったが,自動車時代の到来などを経て,1929(昭和4)年に,鉄筋コンクリートの橋へと進化した。この三代目萬代橋は,2004(平成16)年7月6日,「意匠的に優秀なもの」「技術的に優秀なもの」の価値を認められて重要文化財に指定された。御影石を施す重厚な外観,連続アーチの律動感の巧みな表現などが,橋梁デザイン史で価値が高いと認められ,建設当時,鉄筋コンクリート構造物としてわが国最大支間(42.4m)を実現していることなどから,技術的達成度を示す遺産として貴重とされたのである。

大正期の新潟市は,港湾や鉄道などの整備が進むにつれて,中心市街地や工業地帯などとの結びつきの強化が急務となり,将来を見すえた都市形態の構想が作り上げられた大切な時期であった。この中で萬代橋は,新潟市の東西の交流を支えるきわめて重要な幹線上に位置し,近代都市へと脱皮するための象徴的な存在であった。計画は2車線だが総幅員は22mもある。これは電鉄会社が,新潟駅から県庁(今の新潟市役所の位置)の間に電車を走らせる計画を立て,橋の建設費のうち軌道敷分を寄付する形で参加したことによる。しかし,その後の資金難から軌条は敷設されることはなかったが,この5.5mの軌道敷部分は後世のモータリゼーションに伴う新潟市の発展に大きな貢献をすることとなったのである。

このような広い幅員の永久橋を実現に近づけた背景には,わが国治水事業で忘れてはならない大河津(おおこうづ)分水路があり,これによって信濃川の河状整理が実施され,770mもの川幅が270mとなることが確実なものとなっていた。橋の建設が経済的にも現実的なものになるだけではなく,東西両岸のまちの距離が縮まり一体的なまちづくりが可能になることであり,地域の期待がますます高まっていったのである。

このような経緯を経て,いよいよその技術的な課題の解決が,土木学会田中賞でもおなじみ,橋梁技術界の権威・田中豊をはじめとする復興局の技術者たちに託されたのだ。
川幅は狭くなったとはいえ270mもあり,県都の門たるべき橋梁である。新たに挑戦する橋の壮大なイメージを,脳裏に描きはじめた田中豊は,筆頭技師の成瀬勝武と検討を重ねて,地盤条件のために隅田川では実現できなかったコンクリート充腹アーチ橋を,万代橋の形式として選定した。耐震設計の手法が確立されていなかった当時,関東大震災の時に何事もなかったかのように被害を免れた日本橋や二重橋のアーチの強さが,この形式とした理由のひとつであった。

萬代橋の6連アーチは,その厚さを極力減らし,中央から両岸に向かって小さく造ることによって安定感とリズム感のあるものになっている。橋全体が描く滑らかな曲線は軽快を醸し,親柱と高欄を同じ高さにすることで河口の広大な風景を遮らないように配慮されている。加えて,コンクリートを素材とするアーチ,御影石の化粧張りと欄干が重厚感を演出している。萬代橋の美しさの秘密は,重厚さと軽快さの調和がなされたことにある。

これらの実施設計をしたのは,当時弱冠24歳の福田武雄である。福田は,田中豊の指導のもと,算盤と手回し計算機に頼らざるを得ない時代に構造計算を繰り返し,詳細図面の作図までをほぼ1人でまとめ,わずか5ヵ月で設計を終えた。

1964(昭和39)年6月16日,マグニチュード7.5の大地震が新潟を襲った。完成後間もない昭和大橋は落橋し,ほかの橋梁も損傷が激しく車両の通行が不可能となるなか,萬代橋は唯一車輌通行が可能な橋として,新潟市民への物資補給など,災害復旧に大きく貢献した。強さの秘密は,水面下約15m(5階建てのビルに相当),幅約8mの巨大基礎にある。その基礎を造るにあたって,当時の最新技術であった空気潜函方法(ニューマチックケーソン)が使用されている。

空気潜函工法は,それまで外国人の技術指導のもとで行われていたが,正子重三の指揮のもと,萬代橋で初めて日本人技術陣だけの手によって行われ,この工事を機に空気潜函工法が日本の技術として確立された。技術陣(潜函巡業団)は萬代橋を架けた後,全国各地で数々の工事を手がけ,日本の空気潜函工法の発展に寄与したことも忘れてはならない。

明治時代,信濃川の東部には沼垂(ぬったり)町という新潟市とは別の自治体があった、新潟市側と沼垂町側は,信濃川を挟んで対峙する港町として,たびたび利害が衝突した。しかし1907(明治40)年の沼垂町大火において,消防能力の限界に至った沼垂消防団の応援に,新潟市の蒸気ポンプが初めて萬代橋を渡って消火に活躍し,火を食い止めることができた。これを機会に,沼垂市民はもとより新潟市民も反目しあうことは少なくなった。萬代橋は,両者の溝を埋めたのである。

現在,萬代橋は,萬代橋誕生祭,チューリップフェスティバル,新潟まつり,新潟マラソンなど,地域住民の様々な取り組みの場に活用され,市民の賑わいの場として定着している。また,学生の総合演習の場としても利用されており,新潟の活性化に貢献している。
萬代橋は,これからも地域住民を支え,そして新潟のシンボルとして支えられるであろう。萬代(よろずよ)まで新潟の発展を支えてほしいと願った技術者の思いとともに。

諸元・形式:
構造形式 鉄筋コンクリート造6連アーチ橋
規模 橋長307m/幅員21.9m
竣工 1929年
 

(出典:万代橋の秘密(土木紀行),石川 雄一,土木学会誌88-1,2003-1,pp.78-79)

(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架  登録番号:58453)

所在

新潟県新潟市中央区(国道7号,信濃川)

保存状況など

 

見どころ

 

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