オランダ人の水利土木技師コルネーリス・ヨハネス・ファン・ドールンは,明治政府の招聘により1872(明治5)年から1880(明治13)年まで日本に滞在した。ファン・ドールンは,東京と大阪で仕事をし,野蒜港(宮城県桃生郡鳴瀬町)の設計に携わるとともに,猪苗代湖から安積原野に水を引く土木事業の助言者として活躍した。
猪苗代湖は,優に100k㎡を越え,日本で2番目に大きな湖で,標高514mに位置し,重畳する山々に囲まれている。この山並みの東には,4000人の住む小さな郡山村があった。また,遥か東には,松林から成る不毛の安積盆地が広がり,わずかに田畑があちこちに点在するだけである。この風景が語るように,土地の生産性は低く,農民らは貧困にあえいでいた。金策として,娘の身売りまでする百姓もいた。この辺り一帯は,福島県に属し,1870年頃には,中条政恒(なかじょうまさつね)が福島県典事に命名された。中条は,昔は武士で,北海道で未来の農業開発の基礎となる研鑽を積み,荒涼たる安積原野の開拓という大事業に向きあうこととなった。
県典事の中条の願いは,この地域を水田に適す土地に開墾することであった。そういう夢は以前から抱いていたが,稲作に不可欠な灌漑用水の導水ができずに,計画は頓挫していた。そこで中条の思いついた構想とは,猪苗代湖から用水路により必要な水を導入して,灌漑用水網を築き水田に引水するというものであった。中条は,具体的灌漑事業計画に着手するよう,内務省の南一郎平(みなみいちろうべい)に委託した。
しかし,この計画は単なる治水事業ではなかった。中条は,二つの目的を画策していたのである。一つは巧緻な灌漑用水網を介して不毛の大地の肥沃化を狙うこと,二つ目は急速に解体した士族階級の授産手段を創出するということである。中には,支障もなく時勢に適応し,実業の道に転向し早くも起業で栄える者も現われた。しかし,大方の武士あがりの者たちは,急激な時代の変転の中で路頭に迷うばかりであった。新政府の発給するわずかな手当てを支えに,ぎりぎりの生活の中で逼塞(ひっそく)していった。昔は侍として誇りを享受していた者たちにとっては,実に屈辱的な境遇と言える。燎原の火のごとく全国に広まった反乱は,この元武士階級の抱える根深い憤怒の象徴であった。
不穏な世情の懐柔に迫られた政府は,不満解消策を模索しだす。中条の構想は,このような授産政策の一環であった。400戸にのぼる士族が一家を引き連れ,この地域に移り住むという案である。そのためには灌漑設備を築き土地の肥沃化を図り,荒れ野を農地へと切り開くという計画であった。1876(明治9)年内務卿大久保利通は,東北巡視の際に来県し中条と会い,その壮大な計画に賛意を示した。地方の経済と生活基盤の近代化を目指す,大久保の方針とも合致する開拓事業であった。1878(明治11)年の大久保暗殺
の悲報にもめげず,継承者伊藤博文の支持も得て,中条計画は明治政府による賛同を取り付けた。当時の情勢を顧みるに,西南戦争の傷痕がまだ脳裏に鮮明な時期であったことからしても,特に明治新政府への抵抗が激しいこの地域では早急に取り組むべき国家事業と言えるものであった。
1878年11月,ファン・ドールンは実地調査を始める。1873年の南案を検討し,水準測量を行い,地質の特性を調べ,雨・風の量を観察した。1879(明治12)年の初めに,報告書はでき上がった。その報告によると,ファン・ドールンは基本的には日本人案を活かしたが,さらに徹底的に数値化を図り計画書を提出した。根源には,灌漑に必要な水量の算定を常に中心に据えていた。猪苗代湖から導水する場合,どのような成果が現われるか明確に把握したかったので,猪苗代湖の水準測量法を開発し,湖から流入する日橋川(にっぱしがわ)への水量供給の減少をも考慮に入れた。この点は,微妙な問題と言える。なぜなら,河川近くに住む村民は,古来より水利権を所有していたからである。水位の変動を決定するために,ファン・ドールンは多数の量水標を設置し,水位記録を付けさせたのである。
1879(明治12)年にはすでに,この遠大かつ複雑な事業のために起業式が挙行されている。その見積り算定額は40万円と見込まれた。長さ52kmにわたる幹川水路は丘陵域を通るため,15か所ものトンネルを掘削する必要があった。トンネルだけでも,総長7kmに及んだ。工事には,当時の最新工法が注ぎ込まれている。岩はダイナマイトを使って粉砕して,トンネルの坑道を掘った。次に,トンネルに溜まる水を吸い上げるために,強力なポンプと圧縮機を使用した。水位調節には,猪苗代湖の水位の高さを調整する二つの水門を含め多数の水門が築造された。
水流の氾濫に備えて,1万3000㎡を越える堤防を築いた。多くの排水溝と小型の堰からなる灌漑用水施設(地域全体で30万㎡以上となる)を設けることにより,湖水を水田に注ぎ込むという目論見である。水路を掘るために毎日人夫らが何千人も働いて堤防の嵩上げを行った。総計84万に及ぶ人夫たちが労働に駆り出されている。後に琵琶湖疏水事業に関わった田辺朔郎も,このトンネルの設計を担当した。また田辺は,安積疏水のトンネル工事のため働いた人たちを琵琶湖疏水事業でも再度起用している。
日本初の近代用水路である安積疏水の通水式は,1882(明治15)年10月に挙行され,殖産興業を標榜する新政府の象徴となった。
灌漑用水路を最初の奔流がほとばしると,農地面積は2倍となった。全国の9藩から寄り集まった士族は,潤沢な水を得た畑を耕すために家族と共に入植し新生活を始めた。しかし,中には,農民の苛酷な生活に耐えられず,この地を去った士族もいた。開墾に打ち込み地域に定着した者は,「田舎侍」と呼ばれた。これらの人たちの辛苦を通じて,安積疏水の周辺地域は繁栄し,帰農した民は,感謝の念を胸に新しい灌漑設備を活用した。猪苗代湖から取水する安積疎水は,地域の生命線となり,あらゆる用途の水の90%を提
供した。膨大な経費も,実体のある地域発展へと活かされたのである。水田は数が増え,鬱蒼とした森が生まれた。疏水のお陰でかつての村から都市へと変貌を遂げた郡山市は,33万人の住民を抱える大都市に発展した。貧困に窮したこの地域は,次第に繁栄する地方へと変わったのである。
ファン・ドールンの契約は1880(明治13)年に満了し,その後彼自身が帰国を望んだために,この飛躍的推移を目の当たりにすることはなかった。しかし,仙石貢(せんごくみつぐ)博士の主導により,1931(昭和6)年に猪苗代湖の水門脇にファン・ドールンの銅像が建立されている。
(出典:ファン・ドールンと安積疏水(土木紀行),ルイ・ヴァン・ハシテレン/ベルト・トゥッセン,土木学会誌88-12,2003-12,pp.54-55)
福島県郡山市,猪苗代町,河東町