鉄道はきわめて効率の良い交通機関であるが,勾配を嫌うという弱点を持つ。岩手県の花巻から遠野を経て釜石へと至る釜石線もその典型で,建設から運行に至るまで,勾配や急曲線,すなわち地形との戦いであった。
釜石線のルーツは古い。釜石~大橋間は,官営釜石製鉄所の開設に伴い,1880(明治13)年8月30日にわが国で3番目の鉄道として開通した。同区間は官営製鉄所の閉鎖に伴ってわずか3年弱で廃止されたが,製鉄所が民間に払い下げられた後,1893(明治26)年には馬車鉄道が新たに敷設され,1911(明治44)年には軽便鉄道として釜石~大橋間が営業されるようになった。
一方,花巻側の鉄道敷設の動きも明治中期まで遡る。1896(明治29)年3月には,現在の釜石線のルートとほぼ重なる釜石~遠野~花巻を含む路線計画が立案された。この計画の実質的な立案者である山名宋真は,県の委嘱で同ルートの実地調査に参加しており,県下の養蚕,酪農や教育振興に力を尽くしたことでも知られている。この計画と競合して,釜石から遠野を経て黒沢尻(現北上市)へと結ぶ計画や,遠野から南下して大船渡へと達する案もあった。
その後,1910(明治43)年に軽便鉄道法が,翌1911(明治44)年に軽便鉄道補助法が制定されると,計画が一気に実現へと進み始める。岩手軽便鉄道㈱が地元財界を中心に設立され,1912(大正元)年に工事着手,資金難に直面しながらも,1915(大正4)年11月に花巻~仙人峠駅の全通にこぎつけた。のこるは仙人峠~大橋間だけになったが,
この間には標高887mの仙人峠があり,水平距離わずか約4kmにして300mもの高低差を越えなければならない。建設は難航し,戦後1950(昭和25)年にようやく開通する。
今も釜石線の一番の難所は,この仙人峠越えである。長大トンネルとオメガカーブ(その名の通りΩ状の曲線を挟んで水平距離を延ばすもの)を駆使して勾配を25‰(パーミル)に抑えるものとなっている。
そして,釜石線にはもう1つ,仙人峠と同じ最急25‰の峠越えがある。花巻から遠野平野に入る坂で,その坂に登りかかる位置にあるのが,達曽部川橋梁と宮守川橋梁である。
達曽部川橋梁は,軽便鉄道時代の1915(大正4)年建設のプレートガーター橋を,1943(昭和18)年の改軌工事にあたってそのまま包み込むかたちで,鉄筋コンクリートのカテナリーアーチ橋としたものである。
一方,宮守川橋梁は,旧橋梁に平行する形で新たにRCアーチ橋をかけたもので,すぐ脇に煉瓦造の橋脚と橋台が一部残っている。当初は無筋コンクリートアーチとする計画であったが,途中でRCに計画変更されている。
宮守川橋梁は支間20m×5連,達曽部川橋梁は支間19.2m×4連と9.8m×2連である。両者は主要部分の径間がほぼ等しく,また一連の計画で建設されたことから,鉄道の改良工事において既存の構造物をどのように使うか(あるいは使わないか)を対比的に見て取ることができる。
戦時中の1943(昭和18)年という建設時期を考えれば,達曽部川橋梁でとられたやや強引ともいえる手法は,工期の短縮と材料の節約を念頭に置いたものであることは間違いない。最も心配された硬化途中のコンクリートに及ぼす列車通過の影響も,調査の結果,徐行運転を行えば回避できるとして施工されたと伝えられる。近寄ってみれば,コンクリートの表面もいかにも戦時施工といった趣である。
かくして,この二つの橋は歴史の積み重ねを見せながら,今日に続いている。
岩手軽便鉄道は宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルになったという話があり,実際には時代が前後するものの,この二つのアーチ橋が,その象徴として知られている。間近に見ればいささかアラの目立つところもなくはないが,半世紀を経て多くの人に愛されるようになった。これこそ,アーチ構造の美のなせる技であろう。
諸元・形式:
「達曽部川橋梁」
構造形式 鉄筋コンクリート充腹アーチ橋
規 模 径間9.8 m×2連,19.2 m×4連/橋長98.5 m
竣 工 1943(昭和18)年
(旧軽便鉄道用橋梁は1915(大正4)年)
「宮守川橋梁」
構造形式 鉄筋コンクリート充腹アーチ橋
規 模 径間20 m×5連/橋長107.3 m
竣 工 1943(昭和18)年
(出典:釜石線と宮守川橋梁,達曽部川橋梁(土木紀行),西 和彦,土木学会誌88-5,2003-5,pp.54-55)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
達曽部川橋梁:岩手県遠野市宮守町(花巻駅起点22.283 km)
宮守川橋梁:岩手県遠野市宮守町(花巻駅起点25.498 km)