札幌駅からJR学園都市線に乗ると30分ほどであいの里公園駅に着く。札幌市の北端にあたり,北国特有の近代的で瀟洒な住宅地が開け,駅前には水鳥の集う沼を中心に森林が取り囲む形で公園が広がっている。ここから北へ少し歩くと北海道随一の大河石狩川の左岸に至る。川幅1kmに架かる札幌大橋が対岸の当別町と結び,直上流には真新しいJR橋が並んでいる。ここは,本庄睦男の小説『石狩川』の舞台であり,明治時代には入植した開拓民と洪水とのすさまじい戦いが繰り広げられたところであったが,今は一面の農耕地が広がり,対岸の文学碑にその跡を留めているにすぎない。
ここから2km下ったところにあるのが,生振捷水路である。捷水路とは河川の蛇行部を短縮する直線の人工水路のことをいう。ここでは石狩川のまっすぐな水面が視界いっぱいに広がり,その両側には青々とした牧草で覆われた高水敷が広がっている。ここにはまたミクリ,ミズアオイ,カキツバタなどの貴重種植物の群生地でもある。また,まっすぐに伸びる堤防も,天端幅9m,法面勾配10割のゆったりしたものである。左側には残された石狩川の蛇行部である茨戸川が大きな静水面を見せている。ここでは川エビ漁やワカサギ漁が行われ,市民はフナ釣りや散策を楽しんでいる。またかつて国体も行われたボート競技場もあり,学生や社会人の練習風景も見られる。
北海道の開拓は1869(明治2)年の開拓使の設置に始まり,「イ・シカラ・ペツ」アイヌ語で「曲がりくねった川」と言われた石狩川は蛇行を繰り返し,融雪や台風による度重なる洪水が入植者の開拓を阻んでいた。特に1898(明治31)年には氾濫面積1500k㎡,被害家屋18600戸,死者112人もの洪水被害が生じ,多くの入植者が全ての財産を失い,失意のうちに撤退を余儀なくされた。この洪水を契機に治水のための調査が始まり,10年間を経て初代石狩川治水事務所長岡文吉により「石狩川治水調査報文」がまとめられた。この報文は初めてまとめられた石狩川改修計画書であり,ただちに国策,北海道第1期拓殖計画の中に盛り込まれ,本格的な治水事業として生振捷水路事業が始められた。
この捷水路事業は1919(大正8)年2代目治水事務所長有泉榮一の時に着工された。有泉は信濃川で大河津分水事業に携わっていたが,1918(大正7)年,37歳のとき,寺泊町に妻と5人の子供を残し単身で赴任した。有泉はすぐに工事に取りかかるべく内務省に赴き利根川の浚渫船「千葉号」をはじめ,全国で使用されていた掘削機,機関車,土運車などを借り受け,掘削工事を始めた。北海道初めての大工事で,北海道から職員が内務省の利根川工事現場栗橋事務所に派遣され掘削・運搬技術の指導を受け,その手法は,かけ声までもそのまま生振に移植された。有泉は「ヤランバナラン」を口癖に地域住民のために全力を投入した。しかし1919(大正8)年9月丹毒症により事業途中で亡くなった。引き続き内務省から技術者の派遣を受け,最盛期には700人もの地元作業員が従事して事業は続けられ,1931(昭和6)年5月完成,生振捷水路は石狩川の本流となった。
本捷水路は延長3655m,低水路幅125間(230m),堤防間隔500間(910m),掘削土量9444千㎥,平均切深12m,河床勾配1/6000の規模で,掘削された土砂は堤防として利用されている。
この捷水路により石狩川は14.6km短縮され,洪水時の水位は4.5m低下し,石狩低地帯の被害を大幅減少させた。さらに,平水位も2.4m低下し,上流に広がる広大な湿地帯の地下水の排水が促進され耕地化が可能となった。石狩川ではこの後も1969(昭和44)年まで計29か所で捷水路工事が行われ,58km延長が短縮された。石狩川では,これら工事の成果と先達の努力により,現在流域は人口300万人,耕地面積33000haと大きな発展を遂げている。
今この捷水路は石狩川の本流として滔々と流れ,地元の人でさえ人工の河川であるとは知らない。堤防の脇にたたずむ石狩川治水発祥の碑がわずかにそのことを示しているにすぎない。この捷水路では,毎年30万匹のサケ親魚が遡上し,3000万匹の稚魚が下っていく。また漁師が石狩名物のカワヤツメを「どう」と呼ばれる独特の漁具で捕獲している。
この捷水路沿いにさらに下っていくと高水敷は鬱蒼としたヤナギの林に変わり,その中に水芭蕉群落が残されている。白い花の咲く4月には多くの市民が訪れる。捷水路下流には石狩川最下流の橋,石狩河口橋が斜張橋の主塔をそびえ立たせている。ここでは1971(昭和46)年まで渡し船の国道であったがこの橋で解消された。
ここから石狩川は大きく北へカーブして5kmで日本海に至る。河口左岸に広がる砂丘にはハマナスが群生しており,また手前の石狩市旧市街地はかつて道央部の玄関口として栄えた街である。石造りの倉庫が残り,歴史ある料亭が石狩の味覚として三平汁やルイベなどのサケ料理を提供し,遠くから引き寄せられるファンも多い。また近年石狩市により温泉が掘られ「番屋の湯」として年間30万人もの客が訪れ,にぎわいを取り戻している。
生振捷水路は通水後85年を経ようとしているが,その規模は計画高水流量が増大した現在の改修計画でも大きく変わることはない。今後も幾世紀にわたり同じ姿で,石狩川として人々と接していくのであろう。
諸元・形式:
規模 延長3655m/低水路幅230m/堤防間隔910m/平均切深12m/河床勾配1/6000
竣工 1931年
(出典:石狩平野開拓の礎 石狩川 生振捷水路(土木紀行),鈴木 英一,土木学会誌88-4,2003-4,pp.46-47)
北海道石狩市