小牧ダムは,建設当時「東洋一のダム」とも謳われた,富山県の庄川にあつ高さ79.2mの発電用ダムである.緩やかに曲線を描く堤体の上部に連続するゲートがリズム感を創出し,四季折々の表情を見せる庄川峡の豊かな自然と一体となって美しい景観を生み出している.
このダムの起源は,淺野財閥の総帥,淺野總一郎が郷里富山の水利開発の目的で,1919(大正8)年に庄川水力電気会社の設立をしたことに発する.当初,発電された電力は淺野家のセメント事業その他の工業用動力として利用される予定であった.水量の豊富な河川をもつ日本において水力発電は効率の良い方法であり,中でも急流で知られる黒部川をはじめとする富山県の河川はそれに適していた.
当時の日本におけるダム式発電事業は端緒についたばかりで経験に乏しかったことから,アメリカの技術者を招聘し,計画・設計を進めていた.当時アメリカのダム建設技術は世界一のレベルにあり,また発電ダムも数多く建設されていた.小牧ダムは当時東洋一となる80m級のダムである.建設のためにはアメリカの技術と大規模な建設機械が不可欠であった.だが,折からの不況とそれに追い打ちをかける関東大震災の発生により資金調達が不可能となったため,工事はしばらく中断の憂き目を見ることになる.
1925(大正14)年に事業主体が日本電力(現関西電力)に委託され工事が再開になると,ここに工事主任として招聘されたのが石井頴一郎である.石井は1911(明治44)年に帝国大学土木工学科を卒業後横浜市水道局に勤め,その後宇治川電気において大峯ダム(1924(大正13)年竣工)の建設に従事する.この大峯ダムはそれまで日本のダムが採用していたメーソンリー形式(表面に型枠代わりの石を積み上げ,内部に粗石コンクリートを充填する)を止め,現在のようなコンクリート施工とした初のダムであった.石井は同年欧米への水力発電およびダム建設の視察出張をし,帰国後日本電力系庄川水力電気土木課長として小牧ダムの施工に携わる.
事業主体が日本電力へ移ったことから電力用途の変更が行われ,石井は既存計画の骨子はそのままとしながらほとんどすべての設計変更を余儀なくされた.石井はこのとき,堤体自体の美観も東洋一にふさわしいものにすべきと考えたのであろう,ダムのデザインのために建築家を招くこととした.そのときの橋渡しとなったのが大学の2年後輩にあたる田中豊であった.
田中は東京市復興局橋梁課長として帝都の顔たる隅田川橋梁群を手掛けていた.そこで働いていたのが,後にモダニズム建築の大家となる山口文象である.
山口はその時復興局において清洲橋や数寄屋橋などの橋梁の設計を行っていた.日本電力に招かれたときの様子を山口は次のように語っている.
「石井先生が復興局へ来て,『土木のやつらはしょうがないが,建築家がここで働いているらしいけれども,その人間をひとつ紹介してくれ』というわけで,私が紹介されまして,日本電力の嘱託になりました.」
上の石井の言葉からは,大正時代から今日まで連綿と続く土木技術者と建築家のデザインに対する意識の違いを見ることができる.石井は欧米視察の際に,「土木構造物は用・強・美を兼ね備えていなければならぬ」という思いを強くしたことだろう.そしてその思いが,70年後の今日に至るまで称えられるダムを作り出す元になったのである.
山口が実際にどこまで小牧ダムのデザインに関われたのか,はっきりとはわからない.しかし,『小牧発電工事報告』によれば「袖堤に30尺おきに設置された扶壁の形状を堤体上部の橋脚と同じとし,堤体の補強とともに美観を添えた」「橋脚上一つ置きに円筒形の電灯柱を設置し,美観に配慮した」ことが述べられている.おそらく,山口にとって初めてのダム,なおかつ巨大ダムであるだけに,プロポーションを整えたり,ディテールをかたち作ったりという部分的なデザインしかできなかったであろう.しかしモダニズムの建築家である山口の作品らしく,簡潔なかたちの中に美しいバランスを備えたダムとして仕上がったといえる.
石井もこの出来に満足したのであろう.その後,黒部川の開発のおり,再び石井は山口に第二ダムおよび発電所のデザインを頼み,傑作とよばれる作品につながってゆくのである.
諸元・形式:
構造形式 アーチ型重力式コンクリートダム
規模 堤長300.8 m/堤高79.2 m
竣工 1930(昭和5)年
(出典:技術者と建築家のコラボレーション 小牧ダム(土木紀行),池田 大樹,土木学会誌87-7,2002-7,pp.36-37)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
富山県東砺波郡庄川町