徳島県脇町の中央を流れている大谷川には,いくつかの砂防堰堤があるが,脇町役場から上流へ少し遡ったところに,緩やかに美しいカーブを描く,一風変わったアーチ型の堰堤がある.
この堰堤は,1886(明治19)年から1887(明治20)年にかけて,デ・レーケの指導に基づいて築造されたといわれている.構造的には,河床に粘土を突き固め,下流側は松丸太を並べて基礎とし,表面を野面石で被覆した床固工タイプの砂防堰堤であり,現地で調達可能な素材を用いて,人力で築造されている.築造当時の高さは3.8m,長さ97.0mで,二段石積みの堰堤は,水勢をそぎ,河道の中心方向に水流が集まるように工夫されていた.見た限りでは四段の堰堤のようだが,これは後に堤体下部が補強されたものである.堰堤の長さも短くなり,現在は約50mである.昭和初期の大洪水の時,この下流ではほとんど被害がなかったことや,現在も立派に河床安定の目的を果たしている姿には深い感銘を覚える.
この堰堤は,デ・レーケの指導による吉野川流域の砂防事業の施設のうちで現存する唯一の構造物とされており,日本各地に残るデ・レーケの指導による砂防堰堤の中では最大級の規模を誇っている.
デ・レーケは,1884(明治,17)年6月12日から7月4日まで,わずか3週間という短期間に,吉野川を中心に勝浦川,吉野川北岸諸支流などを精力的に調査し,同年9月23日にその調査結果とそれに基づく提案を『吉野川検査復命書』として内務省に提出した.当時,吉野川左岸の支川は典型的な扇状地を形成しており,洪水の度に大量の土砂を流出し,本流に大きな影響を与えていた.デ・レーケは,「水源諸山ノ改良」として,吉野川の改修工事に先立ち,支流の荒廃流域からの流出土砂を抑制する砂防工事の必要性を報告している.この報告に基づいて,1885(明治18)年から,1889(明治22)年にかけて国の直轄工事として,砂防堰堤などの防災工事が行われた.『吉野川検査復命書』では,大谷川について,「平常は水がなく砂礫ばかりである.両岸の高さは20間から25間,崩壊地が多い.山はハゲ山である」と記されているが,堰堤に関わる記述はないため,この堰堤にデ・レーケがどの程度関与したのかは,必ずしも定かではない.
『吉野川検査復命書』では,堰堤の築造だけではなく,むしろ上流の森林の保護について力説しており,「水源・山林保護」という治水に対する思想が明示されている.このような治水や,河川環境に対する森林の重要性は,近年改めて見直されているところである.
長い歳月を経るにつれ,堤体には草が生い茂りゴミが捨てられ,堰堤の存在は忘れさられていたが,1993(平成5)年,地元の人たちにより「デ・レーケ砂防ダムを守る会」が結成され,清掃や雑草の除去などが行われた.この会の活動が行政を動かし,平成6年には徳島県が砂防堰堤本体の保存整備に着手,さらに平成7年には建設省により,砂防環境事業として採択されると同時に,「砂防学習ゾーンモデル」に認定され,堤体周辺の整備事業が5か年計画で行われたのである.その結果,堰堤が親水公園として生まれ変わり,砂防やその歴史について学ぶ場となった.
2000(平成12)年は,日蘭交流400周年記念の年にあたり,4月には,デ・レーケの孫や曾孫8人が脇町を訪れ,堰堤を見学している.また5月には,日蘭交流400周年と大谷川親水公園の落成を祝う式典が,オランダ総領事を招いて「デ・レーケ砂防ダムを守る会」の主催で開かれ,国際交流を深めている.
わずかな会員でスタートした住民組織が,多くの町民や行政を動かし,国際交流にまで発展している.このことは,歴史のある優れた土木構造物が,地域の歴史的・文化的な資産としての価値を持つだけでなく,地域の活性化にも役だつことを示す良い例といえよう.
築堤以来,土砂災害から人々を守り続けてきたこの堰堤は,災害から人々を守るだけでなく,人々が集い,水辺に接し,親しみ,憩う公園として,町民や観光客に愛され,21世紀に引き継がれていくことだろう.
(出典:大谷川デ・レーケ堰堤(土木紀行), 重山 陽一郎,土木学会誌86-3,2001-3,pp.78-79)
徳島県美馬市