無愛想にツルツルした現代の鋼管橋脚とちがい,幾箇所もリベットで留められた鋼管の肌が,不思議にやさしい陰影を生んでなんだか艶っぽく見える.その橋脚が幅方向に5本ずつ,13列65本も並ぶさまは壮観で,ちょっとした森のような感じだ.ここでは橋の上の雑踏もどこか意識の外へ追いやられ,苔むした橋脚の基礎とそのまわりにたつ水紋が,日本的な静寂すら感じさせる.
日本的といえば,岡山においてここ京橋界隈ほど日本的情緒を漂わせてきた場所もなかった.宇喜田秀家の治世,1593(文禄2)年頃に現在の位置に京橋が架けられたと伝えられるが,山陽道の陸運と旭川の水運により京・大坂へ通じる「地の利」「水の利」が交差して,人々や物資が行き交う一大商業地として栄えたのであった.また京橋を通じて西岸の城下町と結ばれる中州,西中島と東中島は明治から大正にかけて遊郭のたちならぶ大歓楽街として発展し,夏の夜などは一帯によしず張りの夜店や寄席がならび,納涼の小舟が川面をうめつくす賑わいをみせたという.この間,伝統的な木桁橋であった京橋は幾度となく洪水で流されているが,1900(明治33)年に鉄柱橋脚をつ木桁橋となり,続いて,1917(大正6)年には現在の永久橋へと架け替わるのである.
京橋架替にあたっては当初,路面電車「岡山電気軌道(岡電)」と道路の併用橋とする計画だったが,岡電側の準備が間に合わず,工事を行っていた岡山市は道路専用橋として京橋を完成させてしまう.その後岡電の京橋乗り入れは,1923(大正12)年の拡築を待ってはじめて実現するのだが,拡築工事では幅方向4本だった橋脚の下流側に1本橋脚が加えられ,高欄や橋灯はそのまま移設されて1917(大正6)年と変わらない美しい姿で竣工している.
この橋の最大の見所ともいえる鋼管橋脚は,2枚の平板を曲面加工し,リベットで合わせて円柱としたものを6本縦につなげてできており,他に類を見ないきわめて独特なものである.その施工においては木製足場が縦横に組まれ,資材や人足の移動に小舟を利用するなどいかにも当時らしい雰囲気が漂い,近代的な京橋の姿と好対照をなしている.また当時普及していなかった鉄筋コンクリート構造を床版に用い,9mスパンの鋼Ⅰ桁を採用するなど,技術的にみて先進的意欲あふれる京橋だが,驚くべきことにその設計者はエリートの帝大卒ではない.設計者,小西隆は地元岡山出身で,名古屋高等工業学校土木科を,1912(明治45)年に卒業し,岡山市に勤めはじめて間もない無名の技手なのである.施工責任者の山本岩雄技手も同じく高等工業学校卒と思われるが,近隣の役人技術者を相手に土木講習会を開いたり,本格的な設計施工の手引書(実用土木学 大正3年山本岩雄著,岡山・大久保翠琴堂)を著したりと豊富な施工経験をもつ人物で,この独特な橋が計画された背景に山本の意向があったことは間違いない.これら地方技術者の活躍は,「国家プロジェクトの時代」明治の終焉と「地方の時代」大正の幕開けを象徴するものにほかならず,以後の国土整備はこうした地方技術者の手で支えられてゆくのである.
国道2号線という陸路の大動脈を背負い,道路元標の立つ交通の起点として常に時代の先端を走っていた京橋.まっさきに永久橋へと架け替わり,拡幅された橋の上を路面電車が走って,その偉容はますますの繁栄を約束するかのように見えたに違いない.ところが皮肉にも,そうした「近代化」の波こそが,京橋界隈の繁栄を次第に奪ってゆくことになるのである.われわれはそんな「近代化」の跡をいまも京橋一帯に見ることができる.
例えば京橋のすぐ脇に架かる「水管橋」.1905(明治38)年に竣工したこの上水道は,下水道の発達とあいまって人々を川から遠ざけ,川の賑わいを衰退させる遠因となった.1901(明治34)年の山陽鉄道全線開通はまちの中心部を岡山駅へと移し,鉄道に貨物を奪われた京橋港は次第にさびれ,戦後の岡山港開港でその役割を終える.1958(昭和33)年の売春防止法は風俗に押し寄せた「近代化」にほかならず,中島の遊郭が消滅して界隈の衰退にいっそうの拍車をかける.そして1963(昭和38)年,すぐ下流に新国道が完成したことで,県道へと格下げされた京橋は陸運の主役からも退くのである.
しかし,大正の技術と空気を伝えるこの珍しい橋が生き残ったのは,こうして時代の一線から降りたおかげだともいえる.橋脚の森がつくる独特の風景は全国どこを探しても例がなく,これは界隈にとって誇るべき貴重な財産なのである.この京橋を軸にかつての風景を一帯に呼びこむことで,新しい魅力を獲得することが可能ではないだろうか.独特の橋脚に似合っていた美しいオリジナルの橋灯や高欄を再現し,醜いコンクリート覆工をはがして美しい石積み護岸を見せ,船着場機能を復活させるなど,土木の側からできることは山ほどある.そして市民たちも,黙ってはいない.地元商店主らが立ちあがって,12年前から京橋の河川敷で始めた朝市(毎月第一日曜)は,毎回100店以上が出店する県内最大の朝市へと成長し,かつての賑わいを見せてくれる.京橋の新しい時代へ向けた新しい動きに,期待したい.
諸元・形式:
構造形式 鋼Ⅰ型桁,RC床版,切石舗装,杭基礎,内部にコンクリートを打設した鋼管柱橋脚(径80 cm)
規模橋長 131.2 m/15径間/最大径間9.0 m/幅員14.9 m
着工 1915(大正4)年6月10日
竣工 1917(大正6)年3月26日
拡幅 1923(大正12)年
(出典:妖艶な橋脚の森 岡山・京橋(土木紀行), 佐々 暁生,土木学会誌86-7,2001-7,pp.82-83)
岡山市京橋町~西中島町間(県道岡山吉井線,旭川)