木曽川下流部は,長良川,揖斐川をはじめとするいくつもの河川が複雑に絡み合う氾濫原であった.ここに田畑を拓いた人々は室町時代初期から輪中を作って出水に備えたが,輪中の広まりは上流からの土砂による河床の上昇を促し,結果として輪中内を低湿地として残すこととなった.さらに,濃尾平野の河川は地殻変動の影響で西へ行くほど河床が低く,大雨が降ると広大な流域の水が長時間にわたって西側に集中する.この地形上の悪条件は,しばしば堤防の決壊,輪中内の湛水による重大な水害を招き,人々を苦しめた.薩摩藩が過酷な負担の末に油島締切堤を完成させた宝暦治水(1754~1755)など,さまざまな治水策の甲斐なく木曽三川の水害は多くの犠牲を出し続ける.東海道の宮(熱田)から桑名までを「七里の渡し」として舟運に頼っていたのも,この地域に安定した陸路を確保するのが難しかったからであろう.
明治になると,地元の河川改修の要望が強まる.輪中堤防の取締役,寺の住職,医師など地元の有力者が次々に三川分流を中心とした河川改修を願い出ている.明治政府がオランダから技術者を招聘し,治水に関する調査に着手したと聞いて,三重,愛知両県が木曽三川の治水方策について,是非ともアドバイスを受けたいと本省に申し出たのも当然の流れであった.こうして,御雇い外国人として,1873(明治6)年に来日したオランダ人Johannis de Rijke(ヨハネス・デ・レイケ)(1842~1913)が木曽川の改修を計画することになる.デ・レイケは現地踏査の上1878(明治11)年に「木曽川下流の概説書」を内務省に提出した.その後,流量調査,上流部踏査に基づいて,1896(明治19)年に明治改修計画を作成する.
彼の計画を大づかみに言えばこうである.河床が高く,上流からの土砂が多い木曽川は他の川から独立させて流量を確保する.そうすれば土砂は堆積せず,河道は安定する.一方,長良川と揖斐川は速やかに水が流下するように河道を広げ,整理する.土砂そのものの流下を抑えるために,木曽川上流部の山林保護が重要であることも強調している.
大胆な流路の変更を伴う彼の計画では,木曽川の河道付近まで長良川を導き,それに隣接して木曽川の新しい河道を拓く.計画全体の要となるのが,長良川と木曽川を分離する背割堤である.デ・レイケは,川の流れを制御し,背割堤を流水の直撃から守るために,すでに淀川で施工していたオランダ式の水制を,ここにも適用する.
水制そのものは新しい技術ではなく,日本にも松杭を列状に打ち込んだ「杭出し」など,同じ目的をもつ工法が存在していた.オランダ流の水制は粗朶(そだ:伐り取った木の枝)を結束して格子状に組み,杭を打ち石を積んで水中に固定するものであり,より流水の制御に効果のあるものだった.オランダ語でkrib(クリップ)と呼ばれたこの水制を日本古来の水制と区別してケレップ水制という名が定着したと言われている.
木曽川と長良川を連絡する船頭平閘門の傍らに木曽川文庫があり,デ・レイケの作成した図面が保管されている.そこに示されたケレップ水制は原河道の要所をなぞるように配置されており,彼がオランダで築堤に携わった経験から丁寧に地形を読んで計画にあたった様子を伺い知ることができる.
三川分流計画は清水濟,佐伯敦崇により着手され,明治の終わりに完成した.以降,この地において,水害は大幅に減るのである.
緒元・形式:
構造形式 石水制(T 型・玉石積)
規模 長さ150~220 m(約30 か所)
施工期間 1887~1911(明治20~44)年
(出典:意図された姿 木曽川ケレップ水制群(土木紀行), 福井 恒明,土木学会誌86-11,2001-11,pp.44-45)
三重県海津郡海津町・愛知県海部郡立田村
愛知県海津郡八開村(木曽川)